腹黒元副盟主のわななき

黒い砂漠デネブ鯖『アークエンジェル』、リネレボフリンテッサ鯖「xxxMZRxxx」血盟所属の腹黒い事務員カタリナのリネとは無関係の駄文集

ロマンシングに魅せられて

日本に消費税が導入された1989年から1990年にかけて、バブル経済が崩壊の兆しを見せ始めた。1989年5月から連続的に行われた公定歩合の引き上げにより株価は同年12月の終値をピークに暴落を重ねるようになり、91年から93年にかけての3年間はバブル崩壊期間とのちに呼ばれるようになる。リナはというと、当時小学9歳から11歳。ちょうど父が金融崩壊直前に滑り込みで現在の家を購入し、弟が自我に目覚めシャドウゲイトに絶望したころ。小学4年になると腐り散らかした保健医(正しくは養護教諭。保健医というのは創作に用いられることが多い誤用。敢えて使っています)にマインドスクリーンを見せられて腐り始めた辺りだ。

ゲーム業界はというと、1988年にDQ3が社会現象を巻き起こし、89年にはゲームボーイが発売されスクウェアソフト初のミリオンセラーRPG作品「魔界塔士Sa・Ga」が当時の少年少女たちの心を鷲掴みにし、90年2月には私の愛して止まないドラゴンクエスト4が発売され再び社会現象となり、リナのRPG好きは加速した。まだこの頃はゲーム業界にはそれほど不況の波が影響していなかったのか、それとももともと資本力あるメーカーの大作発表がカムフラージュになったのか、テレビCMもゲームソフトのものが多くみられた。実際、少子化が騒がれるのはこの10年後。未来ある子供たちにゲームの一つも買ってやれないほどに家庭が困窮しだすのはまだ先の話だ。世の中には、ファミコンゲームボーイPCエンジンメガドライブなどが闊歩し、ほかにもSEGA MarkⅢやらマスターシステムやら「ゲーム業界で一旗揚げたいけど空回り」した機器もたくさんあって、「ゲーム」「車」「AV家電」だけは燦然と輝いていた。そして90年11月にその後のゲーム史を大きく揺るがすスーパーファミコン(以後SFC)が発売となり、子供たちの熱狂ぶりはピークを迎える。90年のSFC発売から99年にメーカーが相次ぎ倒産・撤退を始めるまでの間、不況もなんのその、の業界だったのだ。

我が家にSFCがやって来たのは発売から遅れること1年、1991年のことだ。ある日帰宅すると、居間のコタツの上にドーンと箱に入った状態で置いてあったのだ。我が目を疑ったね。4年生ともなると欲望をある程度律し、我慢することができるので欲しくてもそんなそぶりも見せずに、友人宅でゲームに興じることの多かった私。どちらかというとちょっと冷めた女の子だったのだ。しかし、SFCの筐体を見た瞬間、私の中の何かが決壊した。音速で開封し、ろくに説明書も読まずに接続した。購入してきた父親が若干引くくらいの勢いでセッティングしていた。一緒においてあったソフトは「スーパーマリオワールド」。シリーズ初のセーブ機能付き。面倒なワープなんて使わなくても時間と日数をかけてじっくり攻略できるようになったこのあたらしいマリオに、私も感動したけれど父親は感涙していた。短気な(というより切れやすい中年)父は、失敗して気に入らないと無意識にリセットしやがる癖があったのだけれど、このおかげ気持ちよくゲームで遊べるようになった。かつてマリオ3に熱を上げ狂ったようにプレイしていた父は、再び子供たちと一緒にゲームで遊ぶようになるのだけれど、この頃から毎週末友人と磯釣りに行くようになり、娘そっちのけで麻雀ゲームに興じていたあの頃とは違い、それほどSFCで遊ぶ姿は見ていない。その代わり、小学生となった弟が今度はSFCに熱を上げ狂ったようにゲームに興じるようになり、なんだかんだリナ家のSFCは毎日6時間ほどフル稼働していたように思う。

 

経緯は不明だけど何故か父上の気まぐれでリナ家にやって来たSFC。実はスーパーマリオワールドはそれほど狂ったようにはプレイしていなかった。1回クリアしたら付き合い程度にプレイしていて、ほかのゲームを早々に買っていた記憶がある。というのも、以前FF2とシャドウゲイトを買ってもらった件の中古ゲームショップ「わんぱくこぞう」、リナ家から自転車で10分ほどの場所(駅前)に建っていて、ちょっと祖母とお茶をしに街まで出た帰りなどに高確率で何か買ってもらえたのだ。時はバブル末期。ちょうどゼネコンが気の狂ったように稼ぎまくっていたころで、建設業界は未曽有の高収入だったのだ。左官職人の祖父の給料なんて今のリナの倍はあったと思う。しかも若干変わり者の祖父は、稼いだお金も家を建て直すでもなく、酒と女に使うでもなく、ひたすら貯めていたようなのだ。ことあるごとに祖父は祖母に「なにかリナに買ってあげなさい」的なお小遣いを渡していたらしく、おばあちゃん子だったわたしはオネダリしたわけでもないのに色々買ってもらえたのだ。バブルが弾けて建設業界の不正入札が相次いで露見し、建設局が業界全体の締め付けを始めるまでの間、祖父はかなり裕福だったはずだ。

で、「わんぱくこぞう」もSFC販売開始とともにリニューアルし、今まで死に筋の商品が陳列されていた棚には中古SFCソフトが並ぶようになっていた。「何か買ってあげようか」と祖母に問われるたびに新たなSFCソフトを買ってもらっていたリナ。ガンダムF91ゼルダの伝説、FF4、らんま1/2FF5DQ5、真女神転生、きんぎょ注意報、人生劇場、メタルマックスセーラームーン…次々と遊びに行くたびにソフトは増えていく。そして、小学6年生の冬、私はロマンシングサガ2(以後ロマサガ2)に出会う。

ロマンシングサガシリーズとは、フリーシナリオを前面に押し出したRPGで、言わずと知れたスクウェアソフトを代表するFFと人気を二分した名作シリーズだ。DQやFFももちろん大好物なのだけれど、ロマサガは別格だ。もうね、私の拙い文章で表現するのは憚られるので、知らない人はググってほしいくらいだ。キャラクターデザインは、過去に何回かわなないたことがある、私の最も敬愛するイラストレーターの一人小林智美先生。サウンドコンポーザーは私が最も敬愛するゲーム音楽作曲家の一人伊藤賢治氏。敬愛しすぎて焼けこげそうだ。それくらい私はロマサガシリーズが好き。特にロマサガ2は一大叙事詩。まさに「サーガ」の名にふさわしい作品だ。失われた領土回復と世界の平穏のために、人々に神話の時代からの伝説として語られる七英雄と戦う「バレンヌ帝国の皇帝」の数百年にわたる物語が描かれる。代々の皇帝は「伝承法」という秘術で皇帝としての「記憶」と「能力」を次世代に受け継がせ、各地の問題を解決しながら帝国の領土回復と七英雄の放つモンスターとの戦いに明け暮れる。ゲーム開始時プレイヤーが名付けるのは「最終皇帝」となり、その世代に至るまでの数百年は各節目で皇位継承候補の中から次皇帝を選択することで歴史が紡がれてゆく。私は「叙事詩」的な物語にめっぽう弱い。思い入れのあるキャラが「命を散らし、次世代がその意志を引き継ぐ」ゲームなんてそれまでに体験したことがなかったのだけれど、ロマサガ2は私の琴線にビンビンに触れた作品だった。あまりにも好きすぎて、2年周期くらいで未だに再プレイしているくらいだ。最後にクリアしたのは一昨年だったかと思うので、そろそろまたリネージュそっちのけで遊んでしまうかもしれない。

さて、ロマサガシリーズの特徴として全作品に挙げられるのが当時業界では珍しかったフリーシナリオシステムだ。よくある一本道のストーリー展開ではなくて、プレイヤーの自由に各地のシナリオをクリアできる。モンスターの強さも戦闘回数で管理されているため、戦闘から逃げなければそれほど無茶な強さの敵と遭遇することもない。例外として七英雄などのボスは強さレベルに段階があって、周りの雑魚モンスターは瞬殺できてもボスには逆立ちしても勝てない状況に陥ることもあるけれど、それはそれでパーティ編成や戦術、陣形、装備などを工夫してRPGならではの楽しみ方が用意されているのも名作たる所以だと思う。エンディングは一つだったけれども、そこに至る道程が毎回違うし、途中で採った選択によってシナリオが微妙に変化するのもフリーシナリオならではの楽しさだった。ちなみに私は「冥」の術法がほしいが為にコムルーン島というエリアを壊滅させたり、人魚とのラブロマンスのために皇帝を人魚にして蒸発させたり、王位継承問題で揺れるカンバーラントという国から相談を持ち掛けられたのを無視してほかのエリアに討伐に行き、結果カンバーラントが滅んだりした。プレイヤーによって様々に歴史が変化していく「自分だけの叙事詩」を作ることができたのもロマサガ2の魅力だ。

 

で、ここからが今回の本題。

ロマサガ2にどっぷりハマった私が中学2年になり、星野君との切ない恋に落ちた頃、ロマサガ3が発売される。ちょうど交換日記を始めた頃、11月の半ばだったと思う。お互いがゲーマーということもあり、すぐさまロマサガ3をプレイし始めた私たち。ロマサガ3は、フリーシナリオは継承したものの、8人の主人公から一人を選択してメインシナリオを進めつつ随所に散りばめられたサブシナリオをこなしていくスタイルに変わっていた。サブシナリオをすべて回収してからメインシナリオを進めるもよし、サブシナリオそっちのけでメインシナリオだけ進めるもよし、そのあたりがフリーの扱いになっていた。2と違い、一大叙事詩の風体ではなくなったものの、逆に各キャラクターの個性やバックボーンが緻密に設定されていて、小林智美様の耽美なイメージイラストと相まって、物語に没入してしまう作品となっていた。当然、私はその時腐り散らかしていたので、少年キャラのユリアンと前作の皇帝に立場が似ているロアーヌ候ミカエルの2キャラを主人公に据えてプレイしていた。交換日記で星野君と攻略の話をしながら毎夜毎晩ゲームと交換日記に明け暮れていたわけだ。そんな折、星野君から絶対におススメの主人公と言われたのが「カタリナ」だった。そう、私の名前の由来となった女性キャラクターだ。

ロマサガ3のパーティ編成はある程度自由で、街を歩く各キャラクターを最大5人仲間にすることができ、好みのキャラクターだけでパーティを組んで物語を進められるのだけれど、カタリナだけはどの主人公でプレイしても仲間にすることができず、操作したければ主人公にするしかない。どの主人公を選択しても序盤のメインシナリオで必ず登場するのだけれど、その時は「お高く留まった女」の印象しかなく、私の脳内での彼女の評価はかなり低いものだった。星野君にプッシュされていなかったらそもそもプレイしていたかもわからない。私はユリアンとミカエル、ハリード、モニカの4人をクリアしたのち、カタリナのシナリオをプレイし始めた。以下は、私がカタリナを名乗るに至った物語――。

 

 

【序章】

『死蝕』

三百年に一度、死の星が太陽を覆い隠すその時、すべての新しい生命が失われる。人も獣も草花も、魔物でさえも、その運命を逃れることは出来ない。

だが、ある時一人の赤ん坊が生き残った。

死に魅入られ死の定めを負ったその子は長じて魔王となり、世界を支配した。

魔王はアビスへのゲートを開き、アビスの魔貴族達をも支配した。

しかしある日、魔王は突然、何処かへ消えた。

 

魔王が消えた後、世界は四魔貴族に支配された。

 

三百年後、またも死蝕は世界を襲い、一人の赤ん坊を残した。

その子は死の魅惑に耐え死の定めを退け、長じて聖王となった。

聖王は多くの仲間に支えられ、四魔貴族をアビスへと追い返し、アビスゲートを閉ざした。

 

そして今から十数年前、聖王の時代から三百年後、やはり死蝕は世界を襲った。

世界中の人々もアビスの魔物どもも、新たな運命の子の出現を不安と期待を持って見守った。

魔王か聖王かそれとも……。

 

【1.ロアーヌ内乱】

屋敷の2階廊下に設置された大きなせり出し窓から、暗雲立ち込める西の空に時折見える稲光を見つめていたモニカは、大方の予想通り天候が午後から崩れるであろうことを確信していた。天を覆いつくす黒雲がロアーヌの街に近付く。

霊峰タフターン山を南東に臨むロアーヌ領においては天候が不安定なことも多く、この程度の雷雨など普段であれば気にするべくもないものであったが、その日のモニカは自身の心にまとわりつく拭いようのない不安感に駆られていた。

不安の原因はわかっていた。

モニカの実兄、現ロアーヌ候ミカエルの事だ。一昨晩からミカエルはシノン開拓地周辺で大量に発生したモンスターの討伐のために手勢を引き連れて出陣し、ロアーヌ城を留守にしていた。

「いやな天気だわ…お兄様は大丈夫かしら…」

若干27歳にしてロアーヌ候の座に就いたミカエルは、名君と謳われ民衆から惜しまれつつ崩御した先代ロアーヌ候フランツから3か月前に侯爵位を継いでからというもの、周囲からは強引ともとれるその手腕で、瞬く間に先代崩御直後の領内の混乱を払拭し、名実ともに名門ロアーヌ侯爵家の当主となった。

父の死に直面し悲しみに暮れる間もなく、(若輩者のミカエルに政事は任せておけぬ)と陰口を挟む諸侯たちを納得させるべく行政に明け暮れるミカエルを間近で見てきたモニカには、その疲労、心労がどれほど敬愛する兄を蝕んでいるのかを慮ると胸を締め付けるような思いがしていた。

実際、ここ数週間の兄はひどく疲れているようにも見えた。仕事をしている間はそのようなそぶりはおくびにも出さないが、夕餉の後自室で酒をあおるミカエルの陰の濃い横顔を見かけてからというもの、そんな兄のために何もしてやれない己の無力さを、こと戦においては全く役に立たぬ自分に対する歯がゆさをモニカは痛感していた。

 

そんな思いもあって、兄の不在にあっても、執務室と謁見室を兼務する「玉座の間」の前を通り過ぎるときにふと歩みを止めてしまったのかもしれない。

政治の世界に身を置いていない自分は普段足を踏み入れることのない広間。

神事や祭事、大きな政治的催事がない限り入ることはないその部屋の重厚な装飾のされた扉にモニカはそっと寄り掛かった。

その時モニカの耳に入ってきた会話は、朝から感じていた不安感をより禍々しいものに変えるのに十分な内容であった。

玉座の間から声がしたような…誰かいるの?)

 

「…今夜…決行しよう」

「…ええ…こんな機会は二度とありません…」

扉に耳を当て、中の会話を注意深く聞き取る。

「ミカエルはわずかな手勢を率いて出陣している。ヤツの居ぬ間にこのロアーヌの街を押さえてしまえば、如何なミカエルといえども手の打ちようがあるまい…」

「すでに我らの手のものは街のいたるところに潜伏させております。火の手が上がれば一斉に蜂起し、ロアーヌの街を制圧することができましょう」

「民草どもを盾にとられては、手出しできまい」

シノンに我らが放ったモンスター共と一線交えた後、疲弊して街に戻れば我らの本隊が彼奴めを包囲…」

「先代が亡くなってからの3か月の間、我らはこの日のために準備してきたのだ。なんとしてでもヤツの首を取るのだ。あのような若造に、ロアーヌ領をくれてやることはできんよ…これは…聖戦なのだ。そしてミカエルに代わって私がロアーヌ候になる」

男はゆっくりと玉座に近付き腰掛ける。

「その時は、どうかこの私めのこともお忘れなきよう、ゴドウィン男爵、いや……ロアーヌ候・ゴドウィン閣下」

下卑た笑い声が玉座の間から聞こえてくる。

ついに降り出した雷雨の轟音に閉ざされ、そば耳立てていなければ聞こえないような小さな音だが、モニカには狂気に満ちた男たちの密談がすべて聞こえていた。

(そんな…ゴドウィン男爵が……)

敬愛する兄が危機に瀕していることを知りモニカは驚愕する。

「そうだ、モニカを捕らえるのを忘れるなよ。いざというときは人質としても盾としても使える。決行する前に必ず捕らえるのだ」

(!!)

二歩、三歩と後ずさりながら、兄だけでなく自分にも魔の手が迫ろうとしていること、同時に自分が兄の最大の弱点となりうることを悟り、モニカは自室へと踵を返した。

(はやく…早くカタリナにこのことを伝えなければ!)

心臓の鼓動に比例して歩みも速くなる。

モニカの脳裏には、専属の侍女頭にしてロアーヌきっての騎士であるカタリナの聡明な横顔がよぎっていた。

窓からのぞく雷鳴はいつしか激しくなり、豪雨となって城壁を打ち叩いていた。

 

(続く)

 

(続き)

テーブルの上のティーカップが空になってからどれ位の時間が経っただろうか。窓から見えるタフターン山の向こうに見えていた黒雲はもう既にロアーヌの街をすっぽりと覆っていた。午後から降り出した雨はその勢いを増し、今が何刻なのか推し量れないほど城内の明かりが翳っていた。

窓の外に時折見える雷光に照らされて木々の葉や小枝が風に飛ばされる様子からも、街が嵐に見舞われていることが容易に見て取れた。

 

ふぅ、とため息を漏らしながらカタリナ=ラウランは焦点の合わぬ目で東側にせり出した大窓の先に見える黒い風景を眺めていた。

兄を心配しそわそわと落ち着かない様子でここ数日を過ごしていた部屋の主であるモニカを、気晴らしに、と散歩に送り出して、そろそろ帰るころかと思い淹れた紅茶だったが、思いの外モニカの帰りは遅く、結局自分で生温くなった液体を飲み干してしまった。

お兄様は今何をしているかしら、お兄様が心配だわ、と自身が仕えるモニカの傍から見ても判る彼女の心痛も嘆息の原因ではあったが、もう一つカタリナには気がかりなことがあった。

 

――数日前に軍議で決まったシノン地方へのモンスター討伐。カタリナにはそれが何かこれからよからぬことが起こる予兆のような気がしてならなかった。

無論、漠然とした予感などではない。此度の討伐が行われているシノン地方はいわゆる「シノン開拓地」と呼ばれ、十数年前の死蝕により後退した経済の立て直しを図るにあたり、豊富な山林資源のあるこの地方を開拓し、新たな流通品目を確保しようという目的で興されたシノン村を中心に大小の集落からなる特区であり、先代ロアーヌ候フランツ時代からの政策でもあった。

死蝕の後、世界にはモンスターが蔓延るようになっていたが、この地方はフランツ時代に行われた大征伐により、知性なきモンスターどもは駆逐され、弱小なゴブリンとの小競り合いは今も行われているとはいえ比較的に平穏な地方となっており、今回のような中規模討伐が必要とされる要素が本来見当たらないのだ。

にも拘わらずの此度の討伐――。聞けばゴブリンの一団ではなく、複数種のモンスターの混成軍だという。つまり、殆ど平定されていた地方に突如として大群が現れたというのだ。本来モンスターと呼ばれる凶獣の類はゴブリンをはじめとする獣人種と違い、ほぼすべてがその地方に定住する。獣と同じで餌場が荒らされない限り人里には下りてこないはずだった。ましてや、複数種の混成ともなれば、ひと地方が丸々餌場として機能しなくなるような大破壊でもない限りはこんなことは起こりえないのだ。――となると、考えられるのは「人為的にモンスターが放たれた」か「アビスの勢力が死蝕から十数年を経て軍団を送り出し始めた」だ。後者は可能性としては考えられなくもない。が、カタリナはどちらかというと前者の可能性を危惧していた。

領内の混乱は収まったとはいえ、ミカエルにはいまだ敵は多い。親の七光りとまでは云わないまでも、先代より世襲という形で侯爵の地位に就いたミカエルを妬ましく思う者たち、先代のころから虎視眈々とその地位を睨み続けていたものたち、ミカエルの強引ともいえる行政により爵位を剥奪された無能な執政者たちもいる。領内に如何ほどの敵が潜在しているかの全貌はカタリナでさえも掴み切れていなかった。

仮に、だ。この度の乱が人為的なものだとしてミカエルがおびき寄せられた場合に訪れる危機――この一連の出来事の本命はこちらにあるような気がしてきた。そもそも、遠征先での戦でミカエルが討ち取られる可能性は万に一つもない。世襲後わずか3か月で名君と謳われるようになったミカエルだが、それはあくまで民衆から見た執政官としての彼の一面に対する評価でしかないのだ。妹君であるモニカ姫の侍女頭として、そしてロアーヌ騎士としての立場のカタリナが知るミカエルのもう一つの顔は、将として戦場に立った時に発現する。知略・謀略を巡らせてこその戦において、その類まれなる知才を如何なく発揮し、最小の被害で最大の勝利を収める智将ミカエル。指揮官としても戦闘員としても超一級品の軍神としての姿こそ、現ロアーヌ候ミカエル=アウスバッハ=フォン=ロアーヌの本質なのだ。そんな軍神ミカエルが陣頭指揮をとっているならば、大群とはいえ所詮相手はモンスター。アビスの四魔貴族が相手でもない限り敗北は有り得ない。ならば、ミカエルの不在を意図的に作り出し、留守を狙った卑劣な簒奪行為――これこそが今は見えぬ敵の狙いなのではないだろうか。

面倒なことになりそうだ、と本日何度目かのため息をついたとき、この部屋へ向かってパタパタと忙しない足音が近付いてくるのが聞こえた。兵士のものだろうかと一瞬訝しんだが、数日前ならば戦の準備で兵士の足音が廊下中に響いていたものの、今は最低限の護衛の兵士しか城内には残っていない。第一、足音が軽すぎる。兵士たちの着用する軍靴ではない。

(女性のもの…モニカ様かしら。何をそんなに慌てて)

と思った矢先、勢いよく部屋の扉が開けられ予想通りモニカが部屋の中に飛び込んできた。

「カタリナ、大変なの!!」

何があったのかはわからないが、目の前の金髪の少女は身にまとっていたドレスが乱れるのも気に留めずここまで走って来たらしい。立ち上り、肩で息をしている少女にカタリナは歩み寄った。

「どうしました?モニカ様…そんなに息を切らせて」

この姫君がここまで慌てた様子になるのは初めて見たため面食らったが、ひとまず落ち着かせようとカタリナはモニカを部屋の奥まで導き、先ほどまで自分が座っていた椅子に腰かけさせた。部屋に飛び込んできたときには気付かなったが、カタリナの顔をみて安堵したのか、彼女を見るモニカの瞳には涙が浮かんでいた。

「一体どうされたのです、モニカ様…泣いておられるのですか?」

カタリナがモニカ付きの侍女頭として召し抱えられたのは9年前。カタリナが15歳、モニカは10歳の時であった。仕えるようになってからもうすぐ10年が経とうとしているが、ここに至るまでの9年間でモニカの涙をカタリナは見たことがない。もともと少々世間知らずの天然ボケで草木や動物が好きなお姫様。実の妹のように思っている城内で一番近しい存在であるモニカが涙しているのを見てカタリナの胸はちくりと痛んだ。

「まずは落ち着きましょう。何か温かいもの…紅茶でも淹れましょうか」

「そんな悠長なことは言っていられないの!お兄様が…お兄様が大変なの!」

取り乱すモニカを見て狼狽するカタリナの両手を握り、わなわなと肩を震わせながらモニカが語りだした。

「…私、さっき玉座の間で…大臣とゴドウィン男爵の密談を盗み聞いてしまったのだけれど…」

(ゴドウィン男爵…ロアーヌ候家の血縁にして先代フランツ候の従兄弟。だけれど、フランツ候とは似ても似つかない狡猾で矮小な男でフランツ候崩御の際も「ゴドウィンに気を付けろ」とミカエル様に言い残したことからも、ゴドウィン男爵がフランツ候暗殺の首謀者とも囁かれている…まさか…)

「男爵は魔物を使ってお兄様をおびき寄せて、疲弊して帰ってきたところを自軍で押し潰すつもりなの。そんなこと…」

「モニカ様、そこまでで結構です。そのお話は確かに聞いたのですね?」

と、そこまで聞いたところでカタリナはモニカの言葉を遮った。油断ならぬ男だとは認識していたが、フランツ候暗殺の噂が真実だとすればこの3か月間の出来事の点と点が一本線で繋がる。なるほどすべて仕組まれていたことだったか――。

カタリナの問いにモニカは無言で2度3度コクコクと頷く。

「わかりました。それでは私が馬を出してミカエル様に知らせに参りましょう」

ミカエルが城を留守にしてから明日で4日目になる。そろそろ討伐を終え帰路につく頃合いと予想した。宿営地までは徒歩で丸二日。明日の早朝に宿営地を畳んだとしてロアーヌへの到着は明々後日。ゴドウィンが城と城下町を掌握するまでに一日かかるとして、ミカエルの包囲網を敷くのにも丸一日かかるとすると、今夜あたりに決行してもおかしくない。時間がない――。とはいえ、兵を出して知らせに走るわけにはいかない。馬を走らせれば悪天候とはいえ半日もあれば知らせることができるだろう。ただし、城内の兵がすでにゴドウィンに買収されている、あるいは潜り込んでいる間者の可能性を考えると、自身が走るのが最良の策と思えたのだ。

「待ってカタリナ。お兄様には私が知らせに行きます」

この姫君はとんでもないことを平然と言う。

「何を仰るのですか、モニカ様!」

普段物腰の柔らかい淑女を演じているカタリナも声を荒げた。

「このような嵐の中、馬を走らせるなど危険過ぎます。このまま嵐が続けば途中で馬が走れなくなることだってあります。いかにモニカ様が馬術に長けていると申しましてもそれは姫君にしては、ということ。男のようには参りません。危険です」

とは言ってみたものの、正直モニカをゴドウィンの手から遠ざける方法をどうしようかとカタリナは思案していた。十中八九、彼はモニカを人質として捕えに来るはずだ。殺しはしない。ロアーヌの蝶よ花よ、と民衆から愛されているモニカを殺してしまえば、縦しんばミカエルを倒し侯爵の座についたとしても民衆の暴動は必至。いかにゴドウィンが愚かだとしてもその程度の事は予想できるだろう。おそらく決行直前にここへ兵を送り込んで軟禁する気なのだ。

「危険なのはわかっているわ。でもこのまま城内に居てもどのみち男爵は私を捕らえて盾にするつもりなの」

「それは…」

「政治でも戦いでも役に立たないのに、お兄様の弱点となるのはいやなの!お願い、カタリナ、私をお兄様の所へ行かせて!」

真のこもったモニカの言葉に呼応するように稲光が部屋を一瞬照らした。その瞳は先ほどまで涙を湛えていた少女のものとは思えないほど力がこもっていた。カタリナの両手をつかんだモニカの手に力が入る。

19歳の少女とはいえやはりロアーヌ候家の血筋なのだろう。迷いのない決意の宿った瞳の力にカタリナは気圧されそうになる。数秒思案したのち、仕方ないですね、とため息をつきながらカタリナが応えた。

「私は必ずお兄様へこのことを伝えてみせるわ。だから、カタリナは私が抜け出したことを男爵になるべく悟られないように、少しでも時間を稼いでほしいの」

カタリナに返事させる暇を与えずモニカが続ける。

「私が男爵の手に堕ちなければ少なくともお兄様の負担を軽減することは出来るはず。このことをお兄様にお伝えすることができれば、お兄様の事だから状況を逆手にとって男爵を追い詰める策を見出すに違いないわ。そうよ、私が居なくなることで男爵を罠にはめることができるかもしれない。そのためにも、できるだけ長くゴドウィン男爵たちをだましてね」

やはり血は争えないということか、ミカエルのそれとは異質ではあるが、モニカにも確りとロアーヌ侯爵家の遺伝子が組み込まれていた。

先代フランツも行動派として知られていたが、なかなかどうしてモニカにもその特徴が出ているようだった。普通のご息女がこのような境遇に陥れば、嵐の中を一人で馬を走らせて知らせに行くなどと言う無謀な行動には出ない。せいぜい城下に潜伏して難を逃れようとするか、いっそのこと亡命してしまうか、だ。この一件でモニカにもロアーヌ家のもつ王者の気質が芽生えたようだった。

「わかりました、仰せのままにいたしましょう」

本日何度目かわからないため息をつきながら諦めの体でカタリナが応える。

「カタリナ、ありがとう。それでは準備してくるわ」と笑顔が戻ったモニカは部屋の奥にあるクロゼットへ小走りに消えていった。

「…ふぅ。面倒なことになりそうね…」

モニカが準備している間に、壁に掛けてあった儀礼用の小剣と、いくらかの金貨を皮袋に詰めたもの、雨避けとなるフードローブを用意し、壁にかけてある鏡の横で待つ。

しばらくすると、旅装束に身を包んだモニカが戻ってくる。

「モニカ様、これを」

と用意したものをモニカに渡し、彼女がそれらをすべて身につけ鏡の前に立つのを見届けると、石壁面の一つだけ色合いが他と違う石を押した。先代フランツ候が設えた、王侯貴族のよく用いる脱出口が仕掛け鏡の裏に現れた。中は薄暗いが、油圧式の昇降床となっており人間が乗ると作動するようになっている。降りた先は城の1階、北側の厩舎の目の前に位置する塔屋の石壁の中だ。

「じゃあ、カタリナ。あとのことは、お任せします。必ずお兄様に伝えてみせるわ」

「かしこまりました」

足早に昇降床に乗り、モニカが降りていく。ふと窓の外を覗くと、雨の勢いは衰える様子がなかったが、幾分か雷鳴は止んだように見受けられた。程なくして窓から見える厩舎から愛馬に跨ったモニカが出立するのが見えた。一瞬、蹄の音が間者に聞こえてしまうのでは、とも思ったが依然として降り止まぬ雨音に掻き消され、蹄の音は聞こえることなく北に位置する通用口から少女は脱出したようであった。

「ご無事で…」

祈るような気持ちでその言葉を口にしたカタリナは「さて、本番はこれからね…どうしたものか」と気持ちを入れ替え、今後の自身の行動に思考を巡らせた。遅くとも日が変わる前までにすべての準備を終えないとならない。

(今夜ゴドウィンの手の者がここへモニカ様を押さえにやって来るとして、私はどうするべきか。抵抗すればそのまま捕えられてジ・エンド。何もせずに大人しくしていればモニカ様が抜け出したことがすぐにバレてしまい、それもダメ…となると…)

暫し思案した後、残された時間で最大の効率を出すべくカタリナは行動に移すことにした。

いつも肌身離さず身につけている緋色の鞘に納まった小剣──と言うには少し小さ過ぎる愛剣を懐から取り出し鞘から抜く。薄く赤みがかった美しい刀身に話しかける。

「今回はもしかしたらあなたの力を借りるかもしれない。その時はよろしくね…」

カタリナの言葉に呼応するかのように柄に埋め込まれた緋色の宝玉が一瞬瞬いたように見えた。

(続く)

 

(続き)

普段なら夕闇が街を閉ざし始め、場内に明かりが灯される時間。モニカが城を抜け出してから約一時間ほど、カタリナは気付にと少し濃いめに淹れたアケ原産の紅茶を飲みながら、窓の外を眺めてこの時を待っていた。渋みの強い味の紅茶がこれから行動を起こす活力になる。いかにも不味いという顔で最後の一口を喉に流し入れる。

「さて…そろそろ来る頃ね。まずはモニカ様の替え玉を用意しなければ」

カタリナは部屋の外に出て扉に背を預け、目的の人物が通りかかるのを待った。

程なくして明かりを持った金髪の侍女が部屋へ近付いてきた。ロアーヌ城内の侍女でモニカと背格好が似ている娘は、いつも明かりをもって来るこの少女しか考えつかなかった。後ろ姿だけ見ればモニカにしか見えないため、いつかはモニカの「影」として徴用しようと目論んでいた娘だ。

ロアーヌ侯には「影」と呼ばれる影武者が存在していた。表向きには公表されていないが聖王歴301年、いまから15年前の死蝕の翌年にメッサーナ国王アルバート王の急死に端を発し、以後10年間続くメッサーナの内乱のさなか、ミカエルとモニカが刺客に襲われる事件が起きて以後、ロアーヌ候フランツとその子息ミカエルには、容姿もさることながらその一挙手一投足に至るまですべてそっくりの影武者を用意されていた。ミカエルの影は特に優秀で、彼は王が不在の際は内政の一切を取り仕切るほどの英才教育を施されていた。ミカエルが名君と言われるのは、実はこの影の存在が大きかったともいえる。内政を影に任せて、ミカエル本人は幾度となくロアーヌの街を散策し、民衆の不満や経済の流行り廃り、ロアーヌを取り巻く近隣諸国の情報など、王侯貴族の耳には通常は入らないような情報をじかに見聞きし素早く内政に活かす。十代のころから影と共に過ごし、ロアーヌの民とともにあったミカエルだからこそ、フランツの崩御からわずか3か月で人心を掴むことができたともいえる。

本来、この度の内乱にしてみても、影を城に残して忍びで出陣していればこのようなことも起こらなかったのだが、今回は襲名後初の遠征軍ということで民衆にも見送られる形でミカエルが出陣していた。影はというと今回はミカエルに追従する形で城を空けているため、場内には最低限の兵士しか残されていないのだ。

 

カタリナはモニカの影候補の娘の姿を見ると「こっちへいらっしゃい」とだけ告げて娘の手を引っ張り部屋の奥へと招き入れた。

「何でしょうカタリナ様」

怪訝な顔で娘が尋ねるが、カタリナは答えない。モニカのクローゼットの前に立ち、中からモニカの寝間着を取り出してから口を開いた。

「あなた、名前は?」

「れ、レティーナです。あの、これはどういう…」

困惑するレティーナを正面からよく見ると、絶世の美女と称されるモニカと比べると幾分すれた印象は受けるが、なかなかに美しい娘だった。特筆すべきはその肌の白さ。温室育ちのモニカも透き通るような白い肌をしているが、レティーナのそれもモニカに勝るとも劣らない美しさだった。これならば少し化粧でごまかせば男たちなんて容易く騙せるだろう。

「レティーナ…肌キレイね…。このあたりの出身ではないのかしら」

「出身はキドラントなんです…あの、ですから一体…」

キドラントはロアーヌの北、静海を挟んだ向こう側の北国だ。北の果てといわれるポドールイほどではないにしろ、一年の内ほとんど雪が降り積もるというのだから夏の日差しなどとは縁のない人生を送ってきたのだろう。

「レティーナ。これを着て、このベッドに寝なさい」

といってモニカの寝間着を侍女に渡した。

「そんな!これはモニカ様のお寝間着にベッド…そんな大それたことは」

「いいから早くしなさい!そこに寝て、ただひたすら窓の外でも眺めていなさいな。なんならサイドボードに読みかけの本があるからそれでも読んで。今夜の仕事はもういいから、朝までそうしていなさい」

まくしたてるようにカタリナに凄まれ、レティーナは涙目で言われたとおりに寝間着に着替え始めた。衣擦れの音だけが部屋にこだますほどの静寂。その静寂を破ったのはレティーナだった。

「カタリナ様…胸が少しきついのですが…」

確かにモニカの発展途上の胸に比べるとレティーナのそれは成熟しきった女性のものであった。が、「…殺されたい?」の一言でカタリナは彼女を黙らせた。

ティーナは無言でモニカのベッドに潜り込んだ。王侯貴族御用達の古ロアーヌ調の高級ベッドがもたらす極上の寝心地に、レティーナは思わずため息をもらしたようだった。

「それと、隣の執務室で何があっても声を出してはダメよ。こちらを振り返ってもダメ。人形のように窓の方を見ていなさい。悪いようにはしないわ。」

「は…」

とまで言ってレティーナは口を押えた。なかなか従順な娘だ。

(これで替え玉の準備は完了。後は私が捕らえられた時の準備ね…)

 

壁に掛けられたモニカに持たせたものと同じ儀礼用の小剣を外し、モニカのクローゼット内、色とりどりのドレスの中に愛剣と一緒に忍ばせた。いざというときはここから武器を取り出して使うことができるだろう。素手だとしても、よもやゴドウィンの私兵如きに後れを取るなどとは思わないが、モンスターを使ってミカエルをおびき寄せたことを考えると、念には念を入れる必要があるとカタリナは考えた。城内で間者にいきなり襲われることも考えられるし、ひとまず短刀の一つでも持っていくか…と執務机の引き出しから護身用の短刀を一振り取り出し、腰帯に差した。

(武器の準備もした。あとは…)

と、その時、部屋の外に人の気配を感じ、カタリナは無音で部屋の外へ出た。

扉を開けた目の前によく知った男の顔があった。

「これは大臣殿。何か御用でしょうか?」

モニカの話ではゴドウィンと結託してミカエルを罠にかけた、間者の長である大臣が居た。音もなく扉を開けて出てきたカタリナに一瞬面食らった表情になるが、さすがは一国をかすめ取ろうとする古狸だ。すぐに元の表情にもどり落ち着いた口調で話しかけてきた。

「おおカタリナ殿、モニカ様はどうしておられるかな」

「今日はお疲れのご様子。たった今お休みになられました」

(この狸…モニカ様と私の様子を伺いに来たか…間違いなく今夜決行する気ね)

「そうか、そうか。明日までゆっくりお休みになるのがよかろう」

それだけ言うと大臣は踵を返し自分の執務室へと向かい廊下を歩いて行った。

クーデターの決行が今夜であることを確信したカタリナは、最後の準備をするため、少し足早に夕餉の前で誰も居ないホールを抜け、地下へと続く階段へと向かった。

あまり知恵の回らないゴドウィンの事だ。私を捕らえて監禁し、事が済めば金で懐柔に出るかするはず…と思考を巡らせ、いずれ自分が入れられる牢獄を下見しにカタリナは地下へと降りた。牢獄の監守は入り口の椅子に座り、壁に背を預けて居眠りをしており、テーブルの上には牢屋のマスターキーをはじめとするいくつかの鍵の束が無造作に置いてあった。

「ほんと、ここの担当者はいつ来ても給金泥棒ね…まぁ、暇なんだから無理もない…か」

フランツ候の治世によるものなのか、それとも国柄なのか、ロアーヌには犯罪者が少ない。ゆえに城内の地下牢についても使用されることはほとんどなく、現在投獄されているのは先日ミカエルにより捕らえた異国の盗賊団の残党が二人いるだけであった。また、ほかの国がどのような管理をしているのかカタリナは知らないが、ミカエルの治世において投獄された者はミカエル直々に裁きの場に立ち、有用な者、有益な情報をもたらす者などは、ロアーヌへの服従と引き換えに釈放されるものが多いと聞く。死蝕の直後世の中が乱れ犯罪者が増加したころと比べ、使用頻度が著しく落ちた牢獄は改修され、現在は3部屋が残されるのみとなっていた。

(牢獄の空きは奥の一部屋…捕まったらあそこに入れられるわね)

カタリナは鍵の束から自分が今夜入れられるであろう牢屋の鍵を外して一番奥の使われていない牢屋の中へ鍵を投げ入れた。石畳に金属が当たる高い音が牢獄に響いたが、看守は相変わらず惰眠を貪っているようだ。

「事が済んだら配置換えしてあげるわよ…。今までサボっていた分取り戻させてあげる」

看守を見て微笑むと、カタリナは足早に階段を昇りモニカの部屋に向かった。準備はすべて整った。

 

部屋に戻ると、レティーナは言われたとおりに声も上げずに窓の方に体を向けて微動だにしなかった。急つくりにしてはなかなかできた替え玉だ、とよく見ると侍女はよだれを垂らして寝息を立てている。これから何が起こるかわからないというのに、大した肝だと思ったが、これはこれで好都合だ。カタリナは先ほどと同じくらい濃いめの紅茶を淹れ、事の成り行きを待つことにした。

嵐はまだ止む気配がないようであった。

(続く)

 

(続き)

その時は夜半に訪れた。モニカが城を抜け出して半日余り。嵐のピークは過ぎたようで、窓の外はしん、と静まり返っている。時折強めの風が木々を揺らす音は聞こえるが、雨音はもう聞こえない。順調に進めていればそろそろモニカがシノンの宿営地に辿り着く頃だが、あの嵐の中ではそううまく歩を進めることは出来ないだろう。しかし、ここを去る時の決意に満ちた眼差しを思い出し、モニカならばやってくれると信じるしかできなかった。

薄明りの中、東方にあるという滅亡した王朝の24代国王の英雄譚を読んでいたカタリナは、数人の兵士と思しき軍靴を踏み鳴らす足音が部屋の外から聞こえてくることに気付いた。意識を部屋の外へ集中して気配を探る。3人、いや4人か。軍靴に混じって木靴の音も聞こえる。おそらくこれは大臣のものであろう。足音は部屋の前で止まり、中の様子を探っているようだ。

2時間ほど前、モニカが休んだことを確認しに来た古狸が今度はカタリナの寝しなに襲い掛かろうとしているのは明白だった。

部屋の扉に手が掛かる。――来るか。

勢いよく扉が開け放たれ、予想通り3人の兵士たちと、その後ろから下卑た表情の大臣が闖入してきた。のちの世にゴドウィンの乱と呼ばれるロアーヌの内乱の始まりである。

「何ですか、お前たちは!?」

大仰に驚いてみせる。もう少しで本を読み終えていたのに、と内心うんざりしていた。

「大人しくしてもらおう、カタリナ。モニカ様は我々が預からせてもらう」

下卑た古狸がカタリナに警告しながら兵士に目配せする。男たちは腰にぶら下げた獲物に手をかけこちらを威圧してくるが、涼しい顔でカタリナが言葉を返す。

「モニカ様のお部屋での戯言とは、無礼ですよ、大臣。このようなことがミカエル様に知れればただでは済まされませんよ」

そのミカエルを排し、この国を掠め取ろうとするだけあって眼前の老人は動じる気配がない。

「ミカエル?先代からの世襲で侯爵の椅子に座っているだけのあの若造に何ができる。今日からゴドウィン様がこの城の主だ。ロアーヌは今後ゴドウィン様がより良い方向に導いて下さる。お前もゴドウィン様に逆らうと命がないぞ」

ミカエルを若造呼ばわりした剥げ狸の言葉に内心腸が煮えくり返る思いがしたが努めて冷静にふるまう。

「…そういうこと…。ミカエル様ご不在の隙を狙ってこの城を掠め取ろうというのね。先代の従兄弟とはいえ、まさかゴドウィンのような愚かな男を祭り上げようとは…。あのような無能な男にこの国を治められるはずがないじゃない。大臣、盟主の人選を誤りましたね。それにしても…」

不敵な笑みを浮かべながらカタリナが一歩前へ出る。むき出しの殺気をこちらへ向ける兵士たちを一瞥し、ひと呼吸置いた。

「このカタリナを随分見くびってくれたわね。たったの4人で私をどうにかできると思ったのかしら?」

腹に貯めていた殺気を解放する。侍女頭兼ロアーヌ騎士団プリンセスガード筆頭騎士の剣気を向けられると並の兵士などそれだけで腰を抜かす。ロアーヌ貴族にして、代々ロアーヌ騎士団長を務めてきたラウラン家の息女であるカタリナはその才能を先代フランツに見初められモニカの護衛プリンセスガードの筆頭に任ぜられた。軍神ミカエルを置いて、この女騎士の剣技に勝る者など城内にはいない。

「覚悟しなさい」

カタリナは腰帯に差した小剣を抜き放ち、さらに語気を強めむき出しの殺気を兵士の一人に向けた。ロアーヌ兵の鎧に身を包んでいるが、金で雇われたならず者か傭兵、あるいはゴドウィンの私兵か。殺気に当たった兵士は脂汗を垂らし始め身じろぎもできない。まさに蛇に睨まれた蛙の体だった。

「モ、モニカがどうなってもいいのか、カタリナ!」

冷や汗を流しながらも大臣は兵士を盾にするように少し後ろに下がり声を張り上げた。と同時に、兵士の一人がモニカの寝室の入り口に移動した。カタリナの位置から寝室の入り口までは4メートルほど。

(…あの位置は良くない―。目の前の二人を斬り伏せても部屋までの距離がありすぎる。一足飛びでは届かないわね…)

冷静に自分の立ち位置と兵士の配置を顧みて、カタリナは策を次の段階に進めることにした。

「…わかったわ。モニカ様に指一本も触れることは許さない。この部屋にこれ以上入ることも許さない。誓うことができるならば大人しくしましょう…。ただし、約束が破られたときは……地の底まででも追いかけて…」

小剣を鞘に戻しながら、今度は大臣に向けて殺気を込める。

「私が必ずお前を殺す」

鋭い眼光を大臣に向けた。紛れもない純粋な殺意を込めて。

「わ、わかった。どうせ逃げ場はないのだ。この部屋を見張るだけでよかろう。おい、カタリナの武器を取り上げろ」

カタリナの殺意を向けられ冷や汗をダラダラと垂らしながら上ずった声で大臣が兵士の一人に身体検査を促した。

先ほどまでカタリナの剣気に当てられ微動だに出来なかった兵士の一人が恐る恐るカタリナに近付く。

身体検査を受ける間もカタリナは殺意を込めて大臣を睨み続けていた。当の大臣は目をそらし冷や汗を脂汗に変えて時折こちらをチラチラと見るだけだった。

カタリナの視線が大臣に向けられていることに多少安堵した兵士がカタリナの腰帯に差された小剣に手を伸ばした。

「…っ!どこを触っているの!」

「すっ、すみません!」

臀部を触られたカタリナが兵士を一喝し、反射的に兵士が謝る。もはやこの部屋にいる誰もがカタリナの圧力に屈服しているようだった。

「ろっ、牢に連れていけ!」

カタリナの眼力から逃れようとするように大臣が叫んだ。

縄を掛けられれば厄介だったが、牢に入れれば安心と思ったのか身動きできる状態で連行された。

「お、大人しく牢に入っておれば悪いようにはせん。処遇はゴドウィン様がお決めになるだろう。お前のことは前から気に入っておったようだからな、運が良ければ新ロアーヌ候の側室にでもしてもらえるかもしれんぞ、くへへ…」

大臣の言葉を聞き、おぞましさと怒りが同時に込み上げてきて、今すぐ殺さんばかりの殺意を込めて下衆の笑いを浮かべた眼前の男を鉄格子越しに睨み返した。

しかし、牢に入ったカタリナを見て安心したのかそのまま大臣は振り返り牢を後にした。カタリナは禿げ散らかした老人の後ろ頭に向かって中指を立てて殺意を込めた。牢から出たら真っ先に殺すつもりでいた。

 

 

 

本のページをめくる音だけが牢内に聞こえていた。クーデターが始まる前に読んでいた英雄譚の続きをカタリナはのんきに楽しんでいた。ここへ入れられて最初の食事を運んできた侍女に頼んでモニカの部屋から持ってきてもらったのだ。

ゴドウィンも大臣も、もうすっかりこの国を掌握したつもりでいるらしい。城内の兵士がどうなったのかまではわからないが、食事を運んでくるのはいつもモニカとカタリナに食事を運んでくる城勤めの侍女だった。

何が起きているのか、これからどうなるのか、とおびえた表情で食事を運んできた侍女にカタリナは安心させる意味も込めて本を所望したのだ。牢に入れられた人間が「暇つぶしに本を読みたい」などという。まして、カタリナほどの人間がのんきに構えているのだ。侍女は遠くない未来に、元のロアーヌに戻ることを直感したようで、2度目の食事を運んできたときには安堵した表情を浮かべていた。

牢の中というのはもっと薄寒いものかと予想していたが、意外なことに内部は適温に保たれていた。これでもっと明るければ1週間くらいなら快適に過ごせそうだ。入れられてからどれくらいの時間が経過したのかは正確に把握できないが、運ばれてきた食事の回数から察するに、2日ほどが経過しているはずだった。モニカが無事にミカエルに合流していれば、そろそろ外の世界でミカエルとゴドウィンの決戦が始まっているはずだ。

(退屈は予想していたけど、本一冊じゃ足りなかったようね…さっさとゴドウィンなんてミカエル様に蹴散らされればいいのに)

事前に鍵を牢の中に潜ませているため、出ようと思えばいつでも出られる状況ではあるのだが、カタリナはミカエルの軍が城下に辿り着いてから行動を起こそうと決めていた。おそらく、ミカエルの軍がゴドウィンの軍に打ち勝った時は、大臣とゴドウィンがモニカや城内の人々を人質にしてミカエルの足止めをするはずだ。ミカエルが城下に着けば城内が混乱する。その隙をついてゴドウィンと大臣を斬り捨てる。その腹積もりでいた。そして、それは時間の問題であるとカタリナは確信していた。

烈王と呼ばれる東方の国王の英雄譚を読み返しつつ、カタリナは時が来るのをのんびりと待つことにした。

 

 

その時が訪れたのは、翌日の昼過ぎであった。

城内ににわかに、戦場に漂う殺伐とした空気が充満する。階上では軍靴の足音がこだまし、遠くには法螺貝の音色が聞こえ、カタリナの居る地下牢まで行軍の地響きが伝わってきた。

「始まったわね」

カタリナは自らが動くべきタイミングが来たことを確信し、牢内に投げ入れておいた鍵を使い鉄格子を開け放つ。斬りあう兵士たちの声が聞こえてこないことからも、まだ城内にミカエルの軍勢は入ってきてはいないようだが、すぐ近くまで迫った戦線に城内の兵士たちが慌てふためいている様子はわかった。

牢から出たカタリナはすぐさまモニカの部屋に向かうべく上り階段に足をかけた。

「なっ、カ、カタリナ!?なぜ牢から出ている!?…いや、それよりも貴様、モニカをどこへやった!?」

カタリナを捕らえに来た兵士の一人が彼女を見つけ、すぐさま剣を抜き放ち斬りかかってくる。兵士は相当狼狽しているらしく、その直情的な剣撃は冷静に一歩引いたカタリナの眼前数cmの空を切っただけであった。

「今更気付いても遅いのよ。モニカ様ならとっくにミカエル様と合流しているわ」

不敵な笑みを浮かべ、さらりとカタリナが言い放つ。

「な、何だとぉ」

二度、三度と斬りかかってくる兵士の剣をかわし、大ぶりの攻撃が空を切った隙を逃さず、兵士の後ろに回り込みその首筋に手刀を叩き込む。

「アッ…」

前のめりに倒れ込んだ兵士の背中に向かい

「約束を破らず今日までモニカ様に近付かなかったことのお礼に、命は取らずにおいてあげるわ。約束を守る男は好きよ」

と言葉を投げかけ、階段を駆け上がった。

(まずはレティーナの無事を確認、武器を回収したらあの禿げ狸を切り刻む―)

 

一階へと階段を昇りきったところでカタリナは異様な空気を感じ取って立ち止まった。

「何…これは…」

城内の空気が一変していた。地下牢にいるときは戦場特有の空気だと思っていたが、いざ状況を目の前にし、空気を肌で感じてみると全く異質のものだと気が付いた。重苦しさが違う。

――死の匂い。この城内一面にすでに死の匂いが充満している。虐殺によってもたらされた人の死の怨嗟が渦巻いているかのような、吐き気さえ覚えるほどの濃密な闇の気配。

とっさに、カタリナの脳裏には15年前の記憶が呼び起こされた。

(私はこの空気を知っている…。子供のころに感じた明確な闇の気配。殺された人たちの怨嗟が聞こえてくるような圧倒的な絶望感…死蝕が起こった時と…同じ…?)

カタリナは全速力でホールを抜け、2階への大階段を駆け上りモニカの部屋の扉を蹴り開けた。

「レティーナ!」

返事はない。

(まさか…)

嫌なイメージが頭の中を駆け巡る。カタリナはレティーナがいるはずのモニカの寝室へと飛び込んだ。

「レティーナ…」

「……」

自身が捕らえられた時と同じように彼女はそこに居た。命じられたままに窓の方に顔を向けこちらに背を見せている。微動だにしない。

「レティーナ……」

 

 

「…ほえ?」

「!」

「あ、カタリナ様…おはようございまふ」

一気にカタリナは脱力した。この娘はこの騒ぎの中でもよだれを垂らして眠り呆けていたのか…どれほど大物なのだろう。

「レティーナ。長々と説明している暇はないので簡潔に言います。こっちへいらっしゃい」

「?…何ですかカタリナ様…」

ティーナの手をとり、鏡の裏にある脱出口にレティーナを押し込んだ。

「むぎゅ」

「いい?必ず助けに来るから、大人しくこの中で息を潜めていなさい。」

「カタリナ様っ!床が下がって…!」

ティーナの重みで昇降床が作動したようだが構わずカタリナが続ける。

「床が動かなくなっても目の前の扉は開けてはダメよ。死にたくなかったら言うことを聞きなさい」

「か、カタリナ様!胸がこすれて…」

「だったら搾乳でもして時間を潰しなさい!殺すわよ!」

ティーナを無事に処理したカタリナはモニカのクローゼットから小剣一振りと緋色の鞘の愛剣を取り出し、腰に小剣を刺し、懐に愛剣を忍ばせた。窓の外から戦場の男たちの雄叫びが聞こえる。意を決して、カタリナはモニカの部屋を飛び出した。相変わらずの異質な空気。空気が張り詰めているせいか、それとも五感が何かを感じ取っているのか耳鳴りがする。

階段を降り、1階の大ホールの前に差し掛かった瞬間背後に何かが降り立った。背中に向けられる隠そうともしない殺気。カタリナは相手の確認もせずに振り向きざまに腰の小剣を抜き放った。

「ガッ…」

手に感じる肉を断つ確かな手ごたえ。足元には首を落とされたゴブリンの死骸が転がっていた。

(やはりモンスター…城の兵士は誰も残っていない。ゴドウィンや禿げ狸はどうしたのかしら)

廊下に転がる兵士の屍は数人分。モンスターの襲来でほとんど城外へ逃げたのだろう。確かに城内を支配する重苦しい空気は常人ならば耐えられず逃げ惑うに違いなかった。

と、玉座の間の扉の前に差し掛かった時、この醜悪な空気の元凶と思しき禍々しい気が身体を突き刺すのを扉の奥から感じた。

(…居る)

その辺の雑魚とは異質の狂気。15年前に確かに感じた魔の支配する空気。広間の中にこの空気の元凶である大物の存在を肌で感じ取った。五感は正直なもので、この先に進んではいけないと体中の細胞がカタリナに警告している。

数秒の躊躇いの後、カタリナはその重く荘厳な造りの扉を押し開けた。重々しく開いた扉の向こうは、代々のロアーヌ候の権勢と威厳を象徴する玉座の間。主の不在にあってもその荘厳さは少しも損なわれることはない。

が、その空間にはあってはならないものが存在していた。

――悪鬼。そう形容することしかできない、身に瘴気をまとった存在が玉座に座っていた。

「ミカエルが来るかと思えば、人間の女か…。今は気分がいい。見逃してやるから去ね」

「…驚いたわ。お前のような醜悪な悪鬼如きが人間と会話できるなんて、考えもしなかった」

悪鬼がにぃ、と狂気に満ち満ちた笑いを浮かべる。

「劣等種である人間風情が…面白いことを抜かしよる」

醜悪な牙の生えた口元から瘴気が漏れ出ているように見える。間違いなくこの悪鬼はアビスからの闖入者なのだろう。悪鬼の周りの空間が、放たれる瘴気によって歪んで見えていた。

「カタリナ!」

広間に聞きなれた男の声が響いた。

「ミカエル様‼」

剣士風の浅黒い肌の男を引き連れ、この広間の主たるミカエルが駆け込んできた。広間内の状況を見るなり愛剣のエストックを携え、玉座に居座る悪鬼に正対した。カタリナは納刀しながらミカエルに近付き、傍らに跪く。

「ミカエル様、よくぞご無事で…」

「…カタリナこそ無事で何よりだ。モニカの件でも苦労を掛けた。損な役回りをさせてしまったな」

「…もったいないお言葉にございます」

会話のさなかもミカエルは悪鬼に向けて隠そうともしない殺気を放っていた。

「…きたか、ロアーヌ候。あいにくだがゴドウィンならとっくに逃げ出したぞ。全く役立たずめが…」

そこまで聞いて、カタリナにも合点がいった。

「そう…ゴドウィンが魔物を操っていたのではなくて、お前たちがゴドウィンを傀儡にしていたということね」

「目的はなんだ?お前たちの後ろには何が付いている…?いや、そんなことより、まずはそこをどいてもらおう。栄光あるロアーヌの玉座を穢すことは許さん」

「お前たち下賤で醜悪な魔族如きが聖王三傑にして初代ロアーヌ候フェルディナント様の設えた玉座に触れることなど許されない」

カタリナがミカエルをかばうように一歩前に出る。カタリナの言葉に悪鬼の目の色が変わった。元より歪んだように見えていた悪鬼の周りの空間がより湾曲して見えるほどの瘴気を放ち始めた。

「ミカエル様。まずは私が。もう少しお下がりください」

「おいおいおい、ミカエルさんよ、こんなオネーチャンに任せちゃっていいのかい?相手はデーモン族だぜ、いくらロアーヌ騎士さんでも荷が重すぎやしないか」

ミカエルの連れてきた褐色の肌の男が異を唱える。見れば砂漠の民のような出で立ちに、腰にぶら下げた特徴的な獲物、曲刀。剣士のようではあるが、ロアーヌの民ではない。

「ハリード、心配ない。カタリナは私の最も信頼する騎士だ」

「まぁ、危なくなったら手出ししちまうけど、追加料金だからな」

ハリードと呼ばれた男も相当腕に自信があるようだが、ここは譲るわけにはいかなかった。モニカを悲しませ、泣かせ、ミカエルを侮辱し、栄光あるロアーヌの玉座を汚した罪は万死に値する。腰の小剣を抜き、カタリナはゆっくりと悪鬼へと歩み進んだ。

悪鬼もゆっくりと玉座から立上り、自分より一回り小さい眼前の女騎士を見据えた。

小剣を正眼に構えるや否や、ドレスを身にまとっているとは思えない速さでカタリナが斬り込む。常人の目にはカタリナが目前から消えたように映るだろう。

「!!」

玉座の間にギィンという鈍い金属音が響いた。

悪鬼の醜悪な顔面まで寸でのところでカタリナの放った小剣は悪鬼の発達した凶爪に阻まれた。

続けざまに剣撃を繰り出す。数発は確実に悪鬼の肉体を捉え、かすり傷程度のダメージは与えているが、悪鬼の爪と強靭な肉体に阻まれ、致命傷に至るものは与えられない。

「確かに人間風情にしては強すぎるが……軽い!!」

眉間を狙ったカタリナの一突きを左手で跳ね除ける。数歩ほどの距離を後退したカタリナに今度は悪鬼が仕掛ける番であった。カタリナが体勢を建て直す瞬間、数メートルを跳躍し、全体重を乗せた凶爪の一撃をカタリナに振り下ろす。とっさに小剣を左手に持ち替えて刀身で悪鬼の攻撃を受け止める。

乾いた金属音を立てて小剣の刀身は真っ二つに折れた。そのまま悪鬼の凶爪がカタリナの右肩に食い込んだ…はずだった。その瞬間悪鬼が見たものは、左手に持ち替えた小剣の刀身の下に交差する形でカタリナが懐から取り出した小ぶりの小剣が一瞬朱い閃光を発して悪鬼の爪を受け止める姿であった。

「何だと!?」

目の前の人間の女の細腕で己の渾身の一撃を防ぐことなど不可能だと確信していたが、カタリナは右手に持ったか細い小剣で防ぎ切った。それどころか、振り下ろした右腕に鈍い痛みを感じ自慢の凶爪を見ると、悪鬼の爪は粉々に砕けていた。

「貴様…何をした!?」

「我が栄光あるロアーヌの玉座の間を汚した罪は万死に値すると言ったはずよ。私の手でアビスよりも暗い地獄へ送ってあげる」

折れた小剣を投げ捨て、カタリナは腰を落とし愛剣の柄を両手で握り切っ先を後ろへ向けた。霞の構えである。

「そのようなか細い獲物で我を止められると思うなよ人間。奇跡は二度は起きん。次こそ粉砕してくれる」

悪鬼も同じく腰を落とし、その野太い脚に力を込めた。

「ミカエルさんよ、そろそろ加勢した方がいいんじゃないのか?あんな小剣じゃ長持ちしないぜ」

ハリードがミカエルに進言するも、ミカエルは「何度も言わせるな、ハリード…」と冷ややかに事を見守っていた。

 

「ガアアァァァァッ!!」

広間の大理石の床を粉砕するほどの踏み込みで悪鬼がカタリナめがけて突進してきた。人間の2倍はありそうな巨体と重量から繰り出される純粋な突進は、常人ならば触れれば即死してもおかしくない衝撃だろう。

カタリナとミカエルを交互に見るハリードにミカエルが涼やかに言い放つ。

「カタリナはロアーヌが誇る騎士の頂点にして、私が最も信頼する部下だ」

悪鬼の巨体が目前に迫るが、カタリナは身じろぎもせず、意識を構えた小剣に集中させた。

「起きて……マスカレイド

瞬間、カタリナが手に持つ小剣の刀身から朱い閃光がほとばしった。

 

あまりの眩さに目を瞑ったハリードの目が次に見たものは、胴体から真っ二つに叩き斬られた悪鬼の巨体と、先ほどとは全く別の大剣を振りぬいたカタリナの姿であった。

 

(続く)

 

(続き)

ドン、と音を立てて叩き斬られた巨躯が倒れた。

「…まさ…か、この…結末は……予想…して…いなかった…ぞ」

腰を境目に上下半身を真っ二つにされた片割れ、床に転がった悪鬼の上半身はまだ息があるようだった。息も絶え絶えに悪鬼は大剣を構えたカタリナに語り掛ける。

「さすが、アビスの魔族だけあってしぶといのね」

冷徹な瞳のカタリナが蔑むように悪鬼に語り返す。

「名を…聞いておこう…」

「ロアーヌ宮廷騎士、聖王遺物マスカレイド継承者…カタリナよ。……貴方のせいでドレスが一着無駄になったわ…。代償は…あなたの命のようね」と左手で先ほどの斬り合いで悪鬼の凶爪に軽く引き裂かれたドレスの裾をいじりながら、カタリナはマスカレイドを逆手に構え、その切っ先をゆっくりと動かし悪鬼の頭部の上でぴたりと止めた。

「…カタリナ……恐るべし」

断末魔を上げることもなく、悪鬼の頭部はマスカレイドの切っ先に貫かれた。刀身を醜悪な表情の魔物から引き抜き、ふぅ、とカタリナが一息つくとその美しい緋色の刀身は、その真の姿を現した時と同じように赤い閃光を放ち元の小剣の姿に戻った。

「カタリナ、ご苦労だった」

ミカエルが女騎士に歩み寄り労いの言葉をかける。

「お見苦しい姿をお見せいたしました」

愛剣を鞘に戻し主の傍らに跪き、女騎士は軽く頭を垂れる。

「ゴドウィンが謀反を企んでいることは先代の頃から勘づいていたのだが…よもやアビスの勢力の傀儡となっているとは…。我々の予想以上にアビスの力が増しているということか。以前、ランスに住む天文学者が15年前の死蝕の後再びアビスへのゲートが開き始めたというようなことを進言していたようだが…その見解は正しいようだな」

「はい。先ほどの悪鬼もこちら側に干渉しているアビスの勢力の一端にございましょう」

こちらの世界での姿を保つ力がなくなり、サラサラと砂に姿を変えていく悪鬼の骸を横目に見ながらカタリナが応えた。予想以上のアビスの干渉に、先ほどと同じく15年前の死蝕の記憶が思い出され、眉をひそめた。

 

『死蝕』――。300年に一度世界を襲う死蝕が初めて観測されるようになったのは600年以上前のことだ。それ以前のことについては何一つ文献が残っていない。

太陽が月に隠れる日食とは違い、300年に一度「死星」と呼ばれる星が太陽の光を完全に遮る天体現象が死蝕だが、太陽の光を背に受けた死星のもたらす死の波動により、草木も動物も人間も、そして魔物でさえ新しい命は死に絶え、逃れられるものはいないとされてきた。

しかし600年前、その死の波動に耐え、死蝕から生き延びた人の子がいた。神の子だ、救世主だなどと人々に崇められたその子は、人々の期待とは裏腹に、死に魅入られ、長じて魔王と呼ばれる存在となった。そして魔王はやがて、この世とは相容れぬ世界――アビスへとつながる扉をこじ開けたと伝承されている。こじ開けられた扉の向こう側にすむ魔族の長、四魔貴族をもその圧倒的な力で屈服させ、アビスの勢力を従えてこちら側の世界を死と恐怖で支配した。当時静海沿岸には、最古の王朝メッサーナ王国や、古ロアーヌ王国の他、大小さまざまな都市国家が存在していたが、魔王の侵攻により古ロアーヌは滅亡。メッサーナ王国も滅亡寸前まで追い込まれ、王都ピドナも陥落し、生き残った王家の人々は逃げ落ち、メッサーナ王家の純粋正当な後継者は未だに見つかっていない。アビスがこの世にもたらすものは、須らく滅びへと繋がっているのだ。

この世界に存在すると伝承されているアビスへのゲート――。アビスとはいったい何なのか、なぜゲートの向こうから世界を狙うのか、知る者はいない。

 

「で、俺がここに連れてこられた理由って、結局何だったんだい、ミカエルさん」

神妙な面持ちで考え事をする主従をよそに、恍けた態度でハリードがミカエルに問いかける。

「ミカエル様、こちらの方は…?」

ミカエルに対して無礼な振る舞いをする砂漠の民風の男に少々の殺意を感じつつ、カタリナが怪訝な顔でミカエルに尋ねた。

「ああ、この男はな、あの有名なトルネードだ。偶々、この度の戦で縁あってな。一緒についてきてもらったのだ。と言っても、カタリナがほとんど片付けてしまったようだが」

「俺をそう呼ぶ奴もいるらしいがな、ハリードだ。よろしくな」

といってやや自嘲的に笑う男――ハリードの二つ名トルネード。聞き覚えがあった。

「それではあなた様が、あの猛将トルネード…。お噂はかねがね伺っておりますわ。ミカエル様にご助力いただいたこと、御礼申し上げます」

猛将トルネードとは、戦場におけるハリードにつけられた二つ名である。

15年前、ロアーヌの隣国であるメッサーナ王国アルバート王が急逝したのち、国王不在となったメッサーナ王国は10年におよぶ内乱の時代に入る。我こそはと空位となった国王候補に名乗りを上げた諸侯たちが地方都市で小競り合いを続け、大陸の秩序は麻のように乱れた。その内乱の戦場において、金で雇われる流浪の師団長の噂がいつしか戦場を駆けるようになったのだ。彼の戦法、策、そして何よりも彼自身の戦闘能力――戦場を嵐が通ったかのような熾烈さに、畏怖の念を込めていつしか兵たちはトルネードと呼ぶようになった、と。同時に、金さえ払えば思想も信念も関係なく働くことから、戦場でトルネードを獲得するために大金を積んだ結果、勝利を挙げてもその後の執政にまで資金が回らず没落した貴族が後を絶たなかったとも聞き及んでいる。もっとも5年前に内乱が終結したのち、トルネードの名は久しく聞いていなかったのだが――。

「――ああ、申し遅れました。私はロアーヌ候ミカエル様の妹君モニカ様付きの侍女頭を務めさせていただいております、カタリナ=ラウランと申します。お見知りおきを、ハリード殿」

慇懃な口調で恭うやうやしく挨拶するカタリナを見て、ハリードが目を見開き驚きの表情を見せる。

「モニカ姫の侍女!?アビスの魔族を一刀のもとに斬り伏せるような豪傑が、あの天然お姫様の侍女だってのか?」

(――やはりこの男、いつか刺してしまうかもしれない。ミカエル様に続き、モニカ様まで天然などと――)と静かな殺意を抱いていると、トルネードが続ける。

「アビスの魔物をものともしないその技量は、戦場でこそ真価が発揮されるんじゃないのか?さっきあんたはロアーヌ騎士の頂点だとか言ってたじゃないか。侍女なんかにしておくのはもったいないと思うんだがね…」

それまで黙って二人のやり取りを見ていたミカエルが口を開いた。

「違うのだ、ハリード。この現状を見ればわかると思うが、ロアーヌの領内にしてもアビスの勢力が手を伸ばしてきている。先代から私が侯爵の座を継いだ後も、いまだ国内にはゴドウィンのように私をよく思わない貴族が潜在している。宮廷内も完全に安全が確立されたわけではない。そんな情勢の中で、モニカの護衛を安心して任せられるのは、このカタリナを置いて他にはいないのだ」

「む…、そういうものなのか…。確かにあの強さに加えて聖王遺物の所持者となれば並の魔物が束になっても歯が立たんだろうなぁ…」

さらりとミカエルに言われ、ハリードも納得したようだった。

 

ゴドウィンと大臣を殺り、自分一人で片を付けるつもりでいたところへ予想外のアビスの魔族の襲来、そしてミカエルの到着があったためか状況を整理しきれていなかったカタリナは、大事なことを思い出した。

「ところでミカエル様、モニカ様は…」

本来自分が守るべき主。カタリナの制止を聞かず、強い意志でミカエルの元へと向かった姫君は無事なのだろうか。さきほどミカエルが「モニカの件」と言っていたからには合流には成功したのだろうが、まさか軍に付き従っているとは思えない。本陣にでも残してきたか、ほとぼりが冷めるまでどこかに匿われているのか。

「それがな…、モニカならば今ポドールイのレオニード伯のもとに身を寄せてもらっている」

「レオニード伯…!?あの吸血鬼のレオニード伯ですか?」

予想外のミカエルの返答に、カタリナは一瞬気が遠くなりかけた。まさに、よりによって…である。

北の果てに位置する、雪に覆われた町ポドールイを治めるレオニード伯は、魔王・聖王の両方と面識があり、悠久の時を生き続ける不老不死の吸血鬼である。いつのころからこの世に存在し続けているのかは語られたことはないが、魔王と面識があるという時点で600年以上は生きているということになる。初代ロアーヌ候フェルディナントとは旧知の間柄で、聖王に付き従ったという記述はないが、聖王の血を受けた聖杯を自身の宝とし守り続けている。聖王が苦闘の果てに四魔貴族をアビスへ追い返し世界に平穏を取り戻したのち、荒廃した世界を復興するべく各地に散った諸侯を一堂に集め大会議コングレスを開き各地の領主を決めた際に、常夜の北国ポドールイ領と伯爵位を与えられたのがレオニードだというが、そもそもアビスの住人ではないとはいえ、魔族に分類される吸血鬼が伯爵位を授かっていることからも、聖王12将の一人なのではないかと謂われているが、本人は否定している。

 

「レオニード伯は定期的に街の若い娘を城に招き、その生き血を啜っているという話ですが…モニカ様は、その…」

モニカの美しさに心奪われた吸血鬼が、モニカを襲う――そんな良からぬ想像をしてしまう。

「レオニード伯は、下手な人間よりもはるかに信用できる人物だ。モニカに手を出すことは無い。それに、この度のモニカの行動は想定外だったのだ。ゴドウィンの企てについては以前から気付いてはいたのだが、どうにもあの矮小な男が単独でロアーヌを狙うとは思えなくてな。ゴドウィン以外にも彼奴の協力者や、その背後にいる者どもを根こそぎ燻し出すには、私が城を空けている間に反乱を起こさせる必要があった。故に、必要最低限の兵を連れ出陣したのだが、結果モニカの護衛に割ける人員が居なくてな。それに――私が敗れればあれも生きてはいられぬ身ゆえ、この度は伯爵を頼らせてもらった」

やはり、この主はゴドウィン如きが敵うはずもなかったのだ。クーデター前にカタリナの予見した通り、ミカエルに対する反乱分子は闇から引きずり出され、根こそぎ刈り取られる形になった。モニカが吸血鬼伯爵のもとへ向かったのは予想できなかったが。

「左様でございますか。…申し訳ございませんでした。私がモニカ様をもっと強く制止していれば、そのような事態は回避できたのですが…」

「いや、よい。その結果、お前が城内で自由に動き回れるようになったことで私の仕事もやりやすくなった。モニカの我が儘で苦労を掛けたが、感謝するぞカタリナ」

ミカエルに重ねて労われたことで自然と頬が緩みそうになるのを抑えながらカタリナが尋ねる。

「もったいないお言葉です。……すると、モニカ様は護衛もつけずにポドールイに?」

「それがな、現地で護衛を数名雇い入れた。嵐に阻まれたモニカをその者たちと、このハリードが護衛しながら陣営まで送り届けてくれたのだ」

カタリナがハリードの方を振り向くと、壁に背を預けた剣士がつまらなそうに肩をすくませた。

「モニカが随分とその若者たちを信頼しているようだったのでな、ポドールイまでの護衛を引き続き依頼した。レオニード伯からもモニカが無事到着したとの報せを昨夜受けたので、しっかりと役を全うしてくれたのだな。近いうちにいずれモニカも帰って来ようから、その者たちも十分な恩賞を取らせようと思う」

とモニカの無事を知り安堵したのか、事を終えての満足感なのか、ミカエルがかすかに微笑む。つられてカタリナも顔をほころばせた。

「しかし、逃げたゴドウィンの消息は掴まねばならんな…。アビスが彼奴をそそのかしたのか、あるいはもっと別の何かが暗躍しているのか・・・」

一転して神妙な面持ちになるミカエルの言葉に一抹の不安がよぎる。ゴドウィンの乱は終息を見せたが、カタリナの心にはざわついた違和感が残ったのである。

 

 

首謀者は逃がしたものの、ゴドウィンの乱は瞬く間に終息し、一週間が過ぎた。

カタリナはというと、事後処理に追われろくに本も読めない毎日を過ごしていた。本来、侍女とはいえ宮廷貴族のカタリナが戦後の事後処理などするはずもなかったのだが、帰還したミカエルの鮮やかにすら見える采配により、ゴドウィン男爵家はその爵位を剥奪され一族はロアーヌから追放された。また、ゴドウィンに加担した大臣以下数名の上級臣官が瞬く間に捕らえられ極刑に処され、またその下について反乱に加担させられた形となった下級兵士たちもまた中央からは遠ざけられ、国境警備や地方都市への左遷をされていた。これによって、宮廷内が人手不足に陥り戦災申請などの処理が追い付かなくったため、ついにはカタリナの所にも書類の山が積まれるようになってしまったのだ。「モニカ様のお部屋で書類の処理などできない」と一時的にモニカの部屋の一角にある執務机を離れ、向かいの空き部屋に急造りではあるが庶務室を設けさせたのである。

城下での戦闘はそれほど激しいものではなかったとはいえ、城下町の正門から宮廷に続く中央通りに面した家々は両軍の争いにより、壁が壊されたり板垣が破られたり、商家については看板が吹き飛ばされたり、武器屋に至っては店頭に置いてある商品がゴドウィンの私兵に持っていかれたりと散々な目にあったようである。

ゴドウィン一派をあぶり出すためとはいえ、ロアーヌの街を一時的に戦禍に巻き込んでしまったことには変わりはない、と今回ミカエルは戦災復興の申請書を宮廷に提出し受理されれば、無償での補修と僅かばかりの補償金を取らせるとのお触れを出した。

これにより、書類の精査のために官民は休む間もなく働くこととなったのである。

窓から見える街並みは急ピッチで復興が進められており、近くから遠くからトントンカンカンと大工の金槌を叩く音が聞こえてくる。あと10日もすれば元の美しい街並みに戻るだろうと職人の仕事ぶりを視察しに行ったミカエルが先日宣っていた。

肩と首がだいぶ疲れてきたので軽く首を回すと肩がコキコキと小気味いい音を立てたので、カタリナは「んーーーー…」と、凝ってきた肩の血行を促すため大きく伸びをした。こんなに疲れるくらいなら剣でも振っていた方がいくらかマシだった。

「カタリナ様、失礼します」

ティーセットをトレイに乗せてレティーナが入ってきた。悪鬼との戦闘の直前にモニカの部屋の脱出口に押し込められた少々胸が大きすぎるこの替え玉が暗く狭い通路から出されたのはその日の夕方であった。ミカエルの帰還後、城内に残った魔物の掃討をしていた際に、すっかり忘れていたカタリナが慌てて塔屋から出したのである。何時間も放置された挙句に事情もよくわからぬままではさすがに可哀想かと思い、それまでの経緯をすべて話すと、「私の命が今もあるのはカタリナ様のおかげです」とこの侍女に大層懐かれてしまったのだ。まれにカタリナを見る瞳が尊敬の眼差しとは異なる、妖しく濡れそぼった瞳になることがあるのが若干気になるが、その件に言及するとその先が怖いので努めて平常に接している。当初、モニカの影として育てるつもりでいたレティーナだが、実際は周りに気遣いのできる出来た侍女で、カタリナが一休みしたいと思うと見計らったようにこのようにお茶の用意などをしてくれるので非常に重宝していた。

「ありがとう。そこに置いて頂戴」

と書類が山のように積まれた庶務机の脇にあるサイドテーブルを指さすと、レティーナは嬉しそうにお茶の準備を始めた。すぐにアケ産紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。一息ついたらそろそろ着替えねば、と思った矢先。

「カタリナ…入りますよ…」

と部屋の入り口から声を掛けられた。

正装したモニカがこちらへ微笑みかけながら歩いてくる。

ゴドウィンの乱が平定されてから4日、つい3日ほど前に護衛として同道したというシノン村の開拓民たちを伴い、モニカはポドールイから帰還した。開拓民たちはそのままロアーヌの宿屋に滞在していた。モニカを無事ロアーヌまで送り届けてくれた礼に、とミカエルが部屋をとっておいたのである。戦の事後処理がひと段落着いたら直接その労をねぎらいたいと申し入れたミカエルの厚意を彼らがむげに断ることもなく、ハリードとともに彼らの謁見が今日執り行われる運びとなったのである。

謁見は玉座の間で行われ、立役者であるモニカ姫とカタリナも同席するよう仰せつかっていた。

「モニカ様は嬉しそうでございますね」

妹のように思うモニカの笑顔にカタリナの頬もゆるむ。

「ええ。ユリアン様たちが正門にいらしたそうよ。私たちもそろそろ玉座の間に行きましょう」

どこかはしゃいだ様子のモニカ。ユリアンという男は護衛をしてくれた開拓民の一人だということだが、このモニカの嬉しそうな様子はよもやこのユリアンから何か良からぬアプローチでもされたのか。もしそうだとしたら、状況によっては闇に紛れて葬らねばならないかも知れない、とカタリナは思った。

「カタリナ様、あとの処理は私がやっておきますので、どうぞご準備ください」

とレティーナに促され、「じゃあ、あとは任せたわ」とモニカを伴いカタリナは執務室へと歩き出した。

 

 

「――此度の難局を乗り越えられたのは、多くの者たちの助けがあってこそのものである」

ミカエルは、下段からこちらを見据える5人の協力者たちの目をゆっくりと見ながら、落ち着いた口調で話し出した。傍らに立つモニカはどことなく誇らしげな表情で5人を見つめている。ハリード以外の面々とは初対面のカタリナは先ほどモニカが嬉しそうに名を口にしたユリアンという男がどの男なのかと考えながら目の前の若者たちを見た。

ハリードのように一見するだけで剣士と思わせるような風貌の者はいない。開拓民というだけあって、身動きのとりやすそうな衣服に身を包んでいるが、決して戦いに身を置くような服装ではない。本当にただの開拓民なのだろう。だが、どの者の眼にも単に若さで片付けられない可能性の片鱗を感じさせる光が宿っているようにカタリナには感じられた。

「ハリード、トーマス、ユリアン、エレン、サラ。お前たちは私の家臣でもないのによく働いてくれた」

努めてゆっくりと、全員を意識した声色でミカエルが続ける。

「よくぞ我が妹モニカを無事に送り届けてくれた。私の未熟さゆえに、本来守られるべき民であるお前たちにも迷惑をかけてしまったことは、本当に申し訳なく思っている」

と一国の主であるミカエルが頭を下げたことに恐縮しきっている若者たちとは裏腹に、ハリードが下品なにやけ顔で茶々を入れた。

(あの男はいつか粛清してやろう)とカタリナは誓った。

「僥倖だったのはハリード、お前に出会えたことだ。わが軍に従軍し、指揮官として多大な功績を上げてもらったお前に出会えたこと、神に感謝しよう」

それまで茶化すかのような斜に構えた態度をとっていたハリードだが、一国の主に真摯な態度で正対されると、ばつが悪そうに苦笑した。内心カタリナはそれを見て、ざまぁ見ろと込み上げてくる笑いをこらえるのに必死だった。

一通りミカエルが話し終えると、モニカが檀上から降り前へ歩み出ると、そのままハリードの前まで歩み寄った。

「ハリード様、ありがとうございました」ぺこりと頭を下げる。

「…金のためだ。別に感謝してもらう必要はないぜ」

その皮肉めいた台詞が真意なのか、照れ隠しなのかは判別できないが、モニカの態度から察するに、このハリードという男もそれほど金に執着するような卑しい男ではないのかもしれない。ミカエルに対する態度は許せるものではないが。

続いてモニカがその隣に立つ眼鏡をかけた若者の前に立った。

「トーマス様、ありがとうございます」

「勿体ないお言葉です」

慇懃な態度で礼をするトーマスと呼ばれた若者、おそらくこの開拓民たちのリーダー格と思われるが、なるほどこの男の眼光が4人の中で一番鋭い。いや、鋭いというより「すべて見透かしている眼」をしている。見たところ23から25歳くらい、カタリナとそう歳も変わらぬように見えるが、開拓民とは思えぬ知性と教養を感じさせる達観した眼をしている。服装の趣味も開拓民のそれとは思えぬほど洗練されている。(この男―本当に開拓民なのかしら)カタリナは少しこのトーマスという男に興味を覚えた。

次にモニカはその隣の男に歩み寄る。

ユリアン様、ありがとうございました」

ほのかにモニカの声が艶を帯びる…のはカタリナの思い違いだろうか。ユリアンと呼ばれた特徴的な緑色の髪をした青年は見るからに開拓民のそれとわかる垢抜けない風貌の男だった。ひと言でいうと「野暮ったい」。モニカが心躍らせる相手と思しきユリアンだが、絶世の美女モニカとは全く釣り合いが取れていないように見受けられる。

「自分が正しいと思うことをやれ、っておやじがいつも…別に、そんな…」

受け答えもしどろもどろで、先ほどのトーマスと比べると全く洗練されていない。なぜモニカ様はこのような男と――と思案していたカタリナと、恥ずかしそうにモニカから目をそらしたユリアンの目が合った。

(!?)

――この瞳に宿る哀しそうな光。以前どこかで見たような…。私はこの青年を知っている?いったいどこで、いつ…?

カタリナはユリアンの瞳の奥に秘められている哀しみの感情を見て取った。開拓民に知り合いなどいない。ということは、この青年の一家が開拓民となる前に一度どこかで会っているのだろうか。…全く思い出せない。

(もしかしたら私の勘違いかも知れない。他人の空似ということもあるし、今は気に留めずにおこう。それにしても、このユリアンという青年、要注意ね)

「エレン様、ありがとうございました」

「モニカ様と旅をしたの、結構楽しかったよ」

エレンと呼ばれた娘を見て、カタリナはほぅ、とため息をついた。とても開拓民とは思えない美しい娘。透き通るようなブラウンの髪を無造作に後ろにまとめただけ。化粧っ気も一切ない。にもかかわらず、その顔立ちは全てのパーツの調和がとれていて、自然の美しさがある。貴族の娘が化粧や装飾品を着飾ることで美しさを演出しているのが空しく思えるほど、エレンは美しかった。口調からもうかがえる、自分を偽らない美しさ。内面もおそらく裏表などないのだろう。だが、その瞳には美しさとは別の天性の力のようなものが宿っているように感じる。

「サラ様、ありがとうございました」

「…いえ…」

サラという少女は隣に立つエレンの袖をつかんでいかにも自信なさげにつぶやいた。モニカの話ではエレンの妹ということだが、姉と比べるとまだあどけない少女の顔をしている。まだ15やそこらの子供に見える。態度からも、才気あふれる姉に守られて育ってきた気弱な少女という印象を受けた。

最後にモニカはカタリナに歩み寄り

「カタリナ、ありがとう」

とあろうことか、自分付きの侍女にまで頭を下げた。カタリナは少し屈み、モニカの目線まで自分の目線を落として

「モニカ様の勇気が、ゴドウィンの野望を打ち砕いたのですよ」

と優しく微笑んだ。そう、この姫君の勇気ある行動が、結果最小限の被害でロアーヌを救うことができたのだ。

 

「ここにいる皆には十分な恩賞をとらせよう」

「まぁ、当然だな」

ミカエルの言葉にすぐさま現金な態度をとるハリードに、ついにカタリナのこめかみの血管がピクピクと痙攣し始めたが、

「まぁ、ハリード様ったら!」

とコロコロと笑うモニカの心の底からの笑顔を久しぶりに見ることができて、仕方ないから命だけは勘弁してやるか、とカタリナため息をついた。

 

その夜は、戦勝祝賀会も兼ねたささやかな宴が催され、久しぶりにカタリナはワインを口にした。普段は宴など催されても自室で過ごすことの多いミカエルも、先代が急逝したのち心休まることがなかった反動なのか、珍しく最後まで宴席におり、思い思いに宴を楽しむ者たちをちびりちびりと酒を呷りながら眺めていた。表情こそ仏頂面だが、彼なりに楽しんでいるらしかった。

ハリードは広間の隅で壁に背を預け、静かに酒を飲んでいた。はじめは厭々この場にいるのかとも思ったが、時折、有名なトルネードにぜひ戦術指南を、と話しかけてくる兵士にはきちんと応対しているようなので、本来は存外社交的な男なのだろう。

モニカは、4人固まって初めて口にする宮廷料理に目を輝かせるシノンの面々に混じって始終コロコロと笑っていた。少し前まで兄を心配しふさぎ込んでいたモニカも、すっかり本来の明るい姿を取り戻したようだ。ただ成すがままにあの内乱の流れに身を任せていたら、この姿は見られなかったかもしれないと思うと、あの時モニカを止めなくてよかったとカタリナも微笑みながら遠巻きに彼らを眺めていた。

宴は空が白み始める時間まで続けられた…。

 

 

――数日後。

戦災申請書の庶務仕事も今日で終え、久方ぶりに事務仕事から解放されたカタリナは、夕食を済ませた後、一振りの剣を手にして中庭へ足を運んだ。

(…やっと、落ち着いたわね)

ここのところずっとサボっていたが、日課であった剣の稽古を再開しようと思い立ったのだ。

玉座の間で戦った悪鬼――。紛れもないアビスの住人。戦いに身を置かない人々は彼らを一括りに魔族などと表現しているが、簡単にまとめられるほど彼らの生態系は単純ではない。この世界の動物にしてみても、犬と狼がその獰猛さにおいて全くの別物であるように、異世界の住人とはいえ彼らもまた細分化されているはずなのだ。そしておそらくあの悪鬼は、容易くカタリナに葬られたことからも、強大なアビスの尖兵に過ぎないはずなのだ。

観測史上三度目の死蝕が起こったのは16年前。あれから少しずつではあるが各地で魔物の活性化が報告されるようになり、アビスへのゲートが開き始めたのではないかとも騒がれたが、そこまでの露骨な魔族の露出はなかった。だが、ここに来てにわかに起こってしまった魔族の襲来。過去2回の死蝕を生き延びた人の子、すなわち魔王と聖王。3度目となったあの死蝕で、死の定めから生き延びた人の子がいたならば…。そして、彼、若しくは彼女がかつての魔王と同じような道をたどることがあったとしたら…。再び世界はアビスの脅威にさらされるかもしれない。もう既に今この世界に彼らアビスの勢力が軍勢を送り出し始めているとしたら、再びロアーヌがその脅威にさらされることがこの先にあるのだとすると…果たして自分はミカエルやモニカを、ロアーヌを守り切れるだけの力があるだろうか。いや、守ってみせるのだ。己の命を賭して。

そのようなことを考え始めると、技を研鑽せずにはいられなかったのだ。

 

中庭に設けられた泉に映る上弦の月を眺めながら、うすぼんやりとこれからの事を考えていたカタリナは、ふと自分の背後に人の気配を感じて振り向いた。

「……ミカエル様?」

つい今しがた守ってみせると誓った相手――ミカエルが立っていた。ちょうど月が雲に隠れ、辺りが暗くなる。宮廷の窓から廊下に設えられた灯りがいくつか見えるが、二人を照らすほどの照度はなく、ミカエルの表情は見て取れない。

「ご苦労だったな、カタリナ」

そういいながらミカエルはカタリナの方へ歩いてくる。

カタリナはミカエルの方へと正対して頭を垂れた。

「いえ、私は何も…。自分のすべきことを成しただけですので」

そこまで発したところでカタリナは言葉を失った。

歩み寄ったミカエルに言葉もなく手を引かれ、ミカエル腕の中に抱きすくめられたカタリナは、一瞬何が起きたのか分からず、ただただ瞬きすることしかできなかった。

「お前のことを心配していたのだ」

「…モ、モニカ様の護衛に過ぎない私の心配をして下さるとは、勿体ないお言葉です」

やっとのことで理性を総動員して侍女頭としての言葉を吐き出した。

さきほどまで月を見て呆けていたカタリナの頭が急速に回転を始めた。目の奥が痛いほどの熱を帯びる。が、我が身を抱く男の一言で、カタリナの思考は停止した。

「そうではない。カタリナという一人の女の心配をしていたのだ」

カタリナの腰を抱くミカエルの左腕により力が込められる。男の右手はカタリナの左頬を這い、そのまま頭の後ろに回され優しくカタリナの髪を弄び始めた。

「……うれしい」

抑えきれない感情が悦びの涙となってカタリナの頬を濡らす。ひとかけらの自制心も、今訪れている状況の前ではその役を成してはいなかった。感情がそのまま言葉となってカタリナの唇から漏れ出る。その感情は次の瞬間、ミカエルの唇に塞がれた。

「…んぅ」

それまでだらりと下に伸びていたカタリナの手がやがて愛しい男の背を這い、抱きしめた。モニカと同じ絹糸のような金色の髪に手が触れる。

騎士としてのカタリナはもうおらず、愛しい男の胸の中で悦びに咽び泣くただの女がそこに居た。

 

抱擁を解かれると、そのままミカエルに手を引かれるまま中庭の隅に設けられたモニカが育てているバラ園の中へと移動した。むせ返るようなバラの香りの中で、耳元に寄せられた男の唇に愛を囁かれ、耳朶を軽く噛まれ、カタリナの理性は完全に崩壊した。抱きすくめられ、愛を囁かれ、唇を塞がれ、カタリナはただその恥ずかしさに頬を染め、涙を流すだけだったが、やがて目覚めてしまった女の喜びに身を委ね、もう考えることをやめた。

 

 

「…ところでカタリナよ。マスカレイドはあるか?」

「え…あ、はい。こちらに…」

バラ園から中庭への道すがら、言われるがままに、さきほどまでの熱が冷めやらぬカタリナは愛剣マスカレイドをミカエルに手渡した。

 

聖王遺物といわれる緋色の鞘の短剣マスカレイドは、その謂われの通りに聖王所縁の伝説の宝具である。300年前、世界に平穏をもたらした聖王が、三傑と謳われ、後のロアーヌ建国者、重臣フェルディナントに授け、ロアーヌの国宝とされている短剣で、持ち主の声に呼応し装飾品のような短剣の姿から、悪鬼を一刀のもとに斬り伏せる大剣へとその姿を変える。これは神が遣わせたものなどではなく、聖王と、現在もメッサーナ首都ピドナにある工房の職人たちが当時の術法技術と鍛冶技術を苦心の末融合させた、いわば人間が作り出した宝具だ。その装飾品のような美しさから、マスカレイドは代々ロアーヌ候の后に受け継がれてきたのだが、モニカの護衛としてカタリナが出仕した際、早世していた王妃の遺品の中から先代フランツ侯より預けられたのである。短剣としてならば誰でも扱うことができるが、その真の姿を体現するには持ち主の宿星、いわば術才の波長が合わなければならず、マスカレイドを自在に扱えるものはカタリナを置いてロアーヌには存在しないとまで言われている。

 

「これがロアーヌ候家に伝わる聖王遺物…宝剣マスカレイドか…」

「…ミカエル様?」

未だに頭の芯がぼうっとしている中、カタリナが怪訝な顔でミカエルを見る。

「俺が欲しかったのは……これだ!!」

「何を…仰っているのですか?……まさかお前は!?」

カタリナが言うや否や、ミカエルは後ろへ跳躍した。

それまで薄く靄が掛かったような感覚に陥っていたカタリナの脳内は一気に覚醒した。しかし、その一瞬の隙を見て、ミカエルの姿をした何者かは城壁の天端まで一気に跳躍していた。城壁の上からカタリナを見下ろして男がにやりと笑う。影を作る建物がなくなり、月明かりにはっきりと照らされた男の顔は、先ほどまでのミカエルとは全くの別人となっていた。

「今頃気付いたか!俺の変身能力は見破れなかったようだな、カタリナ!」

「くっ、おのれ」

男はマスカレイドを懐に仕舞い、カタリナに笑いかける。

「フフ……なかなか可愛い声で鳴くじゃないか……。マスカレイド、確かに頂いた。さらば」

「待て!!」

とっさに右内腿に仕込んであったナイフを男めがけて打ち放ったが、男は容易く体を反らせてそれを避け、そのまま夜の闇に飲み込まれていった。

急ぎ男が立っていたところまで駆け寄り、城壁の上から城下を見下ろしたが、男の姿は夜の闇に紛れ確認することができなかった。

「私は…なんということを…」

その場で地に膝をつき、うなだれるカタリナ。先ほど流したものとは全く違う涙がぽろぽろと零れ落ち、カタリナの膝を濡らす。

しばらくの間、服の袖で唇を拭うことしかできなかった女は、何かを思い立ったようにすくっと立上り、月を睨みつけた。

カタリナは丁寧に後ろにまとめてある自身の髪を解き、右内腿に仕込んであるもう一本のナイフで無造作にその長く美しい髪をひと掴みにまとめて、斬り落とした。

はらはらと髪が風に舞いロアーヌの城下を流れていく。

 

女騎士の顔が月明かりに照らされていた。

 

 

 

「カタリナ!!どうしたの、その髪!!」

明くる日の朝。このところミカエルの公務を手伝うようになっており、玉座の間でミカエルと共に書類に目を通していたモニカは、断りもなく中へ入ってきたカタリナの姿を一目見て、驚きを隠せないといった様子で駆け寄ってきた。

「…モニカ様…」

彼女自身も自慢であった美しい髪を無造作に斬り落とし、ショートヘアになって玉座の間に現れたカタリナを見て、玉座に座っていたミカエルも驚いた様子で腰を浮かせた。

「それに、その格好…!」

いつも見ている落ち着きのあるドレス姿ではなく、まるでこれから遠征にでも出るかのような旅装束だ。蒼に染め上げたトラベラーズチュニックの上に、なめし皮の胸当てを着込み、膝上丈の革の脚甲、軽銀の手甲を身に着けている。腰を覆う革のベルトには儀礼用と全く造りの違うロアーヌ銀製の軍用制式レイピアと短剣が2本。薄紫色に染め上げた外套も貴族の儀礼用のもとは違い、実用性を重視して編み込まれたものだ。

側まで駆け寄ろうとするモニカを左手で制して、カタリナが片膝をついた。

 

「ミカエル様、申し訳ございません。マスカレイドを奪われてしまいました。本来ならば、今すぐ自害してお詫びするところですが、何卒マスカレイドを取り戻す機会をお与えください」

 

息もつかず一息にカタリナが口にした告白に、モニカは手にしていた書類の束をはたと床に散らばらせた。

数瞬間をおいて、玉座に座り直したミカエルはじっとカタリナを見つめ、やがて口を開いた。

「…その髪は決意の証か。……良かろう。自らの不始末、その手で清算せよ」

「…ありがとうございます」

下を向いたままカタリナが答える。

間に立つモニカだけがおろおろと、兄と侍女を交互に何度も見た。

数秒の沈黙の後、ミカエルが玉座から立上り、上段からゆっくりと降りながら言葉をつづけた。

「…ただし、マスカレイドを取り戻すまで宮廷に戻ることも、ロアーヌに足を踏み入れることも許さん。必ず奪還して、そして帰還せよ」

「そんな!お兄様っ!それはあんまりだわ!」

今度はモニカが兄の方に振り向き声を荒げた。あまりの冷酷な兄の仕打ちが信じられない、という風だった。

モニカの声を聴き、カタリナが初めて顔を上げた。

「モニカ様、良いのです。ミカエル様は私に生きよ、と仰ってくれたのですよ。…ミカエル様、願いをお聞き届けいただき感謝いたします。……必ずマスカレイドを取り戻して参ります」

と、今度は真っ直ぐにミカエルの眼を見て言うと、そのまま立上り扉の方へと踵を返した。

「カタリナ…!」

その様子を見て、今度こそカタリナに駆け寄ろうとするモニカの肩を掴み制止したミカエルがカタリナの背中に言葉を投げた。

「カタリナ、ひとつ尋ねたい…。お前ほどの者からマスカレイドを奪うとは、相手は只者ではあるまい。いったいどうやって奪われた?」

 

ミカエルの言葉を背に受けて、歩みを止めたカタリナは、しかしながら振り返ることなく答えた。

「……それだけは…申し上げるわけには参りません……!」

「…そうか。…ならば重ねて問うまい。行け、カタリナよ」

ミカエルの言葉に答えることなく、カタリナは玉座の間を後にした。

 

モニカのカタリナを呼ぶ悲痛な声だけが広間に虚しく響いた。

 

(「1.ロアーヌ内乱」…終)