【脳に仕掛ける時限爆弾(後編)】
(前回までのあらすじ)
呪い少女リナ爆誕。誰を呪ったかは秘密。成就したかも言えない。
katharinars3.hatenablog.com
***
大学3年の夏のことだ。S教授(師匠)の前期の講義は最終日を迎え、わたしはレポート提出も済ませ名残りを惜しみつつも大講義室を出ようとしたその時だった。
「リナさん、リナさん」
と師匠に呼び止められた。何か私の提出したレポートに不備でもあったのか、それとも余りに熱心に呪いについて学ぼうとする姿勢が師匠の心をとらえてしまい40の歳の差なんて、と手籠めにされるのか。
全然違った。
「いつも熱心に聞いてくれていたので、リナさんに特別に宿題をあげます!」
え…。いや、要らない。
『何をやらせる気ですか…(帰ってFF11したい)』
「リナさんは千葉県にお住まいだと聞きました。」…教えたのはM教授だな…。
「千葉県で誕生した有名なお坊さんがいるのですけど…ご存知ですよね」
『お坊さん…あ、日蓮ですか』
「そうです、そうです。で、ちょっと私の研究のお手伝いってことでフィールドワークしてきてほしいんですけど」
『はぁ?(;°Д°)』この人、何言ってるんだろう。
***
日蓮の名前を知らない日本人なんていないと思うけど、日蓮宗の起源法華宗を興した人物だ。中学高校の歴史の教科書には「立正安国論」「法華経」「南無妙法蓮華経」くらいしか載っていなかったのではないだろうか。
果たして教科書に載っていない部分についてどこまで知られているのかは謎だ。日蓮宗は現代においても「会系新興宗教」の基となる一大宗派。
安房国長狭郡東条郷の片海(千葉県鴨川市)に漁師の家の子として生まれた日蓮は12歳で寺に入り16歳で出家して比叡山延暦寺にて天台宗に学び、32歳の時に立教したと伝えられている。
千葉県出身だけあって、県内くまなく法華宗の寺が多い。我が実家のお墓も、旦那様のお墓も日蓮宗系のお寺にある。で、紛糾する前に謝っておくと、熱心な日蓮宗系宗教の信者さんたちには本当に申し訳ないのだけど、この日蓮という人は当時で考えるとすさまじくエキセントリック(後述)な人物だったらしい。なにせ、鎌倉仏教と呼ばれるほかの仏教宗派を片っ端から否定して歩く。
法華経以外は本物ではない、念仏(南無阿弥陀仏)唱えるだけで極楽浄土に行けるなんて教えは外道もいいところだ、と。浄土宗徒は特に激しく非難された。法然に恨みでもあったのだろうか。当然のことながらその過激な思想は、他宗派や権力者からは非難をされ続け、迫害され、二度も流刑になるほど目の敵にされていたらしい。
で、この民俗学者の依頼内容は「日蓮宗徒に、あるいは日蓮宗に習合する権力者よって強制改宗させられたという言い伝えが千葉県には多く残っているらしい。民話レベルで構わないので探してこい」という法然も真っ青の内容だった。
これによって私が得るものなんて何一つないのだけれど、どうやら私は違う意味で師匠に見初められたらしく、熱心に民俗学を勉強する猛者だと思われたらしい。
夏休みはサークルの夏合宿があったりするからそんな雑事にかまけている暇はない、と言いたかったのだけれど、民俗学そのものは好物だし普段全く気にしていなかった郷里で鎌倉時代に触れることができるなら面白いかも、と止せばいいのに快諾してしまった。
二つ返事で快諾したのはいいが、帰宅してから問題が一つあることに私は気付いた。
この頃、我がS13シルビアKPSは峠の狼となり果てたわたしの手により荼毘に付されており、次の愛車購入のための資金を貯めている状況だった為、外房の田舎を走り回るための足が必要とされていた。自分の車を持っている友人は地元にも何人かいたのだけれど、ただドライブに行くのではなくて、「日蓮宗徒により強制改宗させられた民話を探しに行く旅」に付き合ってくれるという条件に当てはまる人物はひとりしか心当たりがなかった。
***
「へぇ、つまり元々あった土着の宗教、あるいはその土地で信仰されていた仏教宗派が日蓮宗に改宗させられたという事実があったかをまずどこかで見つけないといけないわけだ」
と、いかにも「不味い」という言う顔でマルボロの紫煙を吐き出してからT君が私の話した内容を要約した。
ウルティマオンラインの一件の後、ネット上でもリアルでもわたしはT君に相談事を持ち掛けることが多くなっていた。
katharinars3.hatenablog.com
大学1,2年目は埼玉で暮らしていたため、盆暮れ正月くらいしか顔を合わせることはなくなっていたけれど、3年目から郷里である外房のキングど田舎シティで暮らしていた私は、再びT君の部屋に入り浸ることが多くなり、この日も「かまいたちの夜2監獄島のわらべ唄」でピンクのしおりを出現させるために二人で奮闘していた。
T君は大学に進学せず、高校時代からバンド活動に勤しむ傍ら、こうやってわたしとも遊んでくれていた。もともと知識欲が人並外れていたからか、私の持ち込んだ難題も楽しそうに聞いてくれる。
彼は私が読み始めるもっと前から京極作品を読み漁り、そこから波及して量子力学や民俗学、宗教学にも明るいオタク青年になっていた。
ところでこの1年前、彼のお父さんが脳梗塞で倒れ、産婦人科医として再起は難しくなってしまったことが原因でご両親は離婚しており、T君はというとお母さまの実家に弟、お母さまと3人で暮らしていた。
このお母さまのご実家というのが、リナたちの住むキングど田舎シティの前市長のお家、つまりT君の祖父様は前市長。キングど田舎シティ中心街の一等地に築40年の純和風住宅を構えていた。おじい様はすでに他界していたため、一応の家庭の切り盛りはお母さまがしてはいたけれど、この家の当主は事実上T君となっていたのだった。ただでさえ3人では広大な屋敷を持て余し気味だったのにもかかわらず、彼は母屋ではなくて離れを占有していて、食事と入浴時以外はずっとこちらに引きこもっていた。私も用があるときは離れに行くだけだったので以前よりもT君を訪ねる頻度は高くなっていた。
「で、リナは単に足が欲しいわけじゃなくて、一緒にフィールドワークしてくれるヤツを探してここに行きついたわけね」と煙草をもみ消して着流し姿をこちらに向ける。この頃彼は家にいるとき部屋着として銀鼠の浴衣を愛用していた。
身長165㎝の小柄で痩せ型な彼の少しはだけた浴衣から見える鎖骨は妙に艶めかしい…が、付き合いが長すぎるせいか1ミリも欲情しない私。
『ついでに、その方法にも明るい人をキボンヌしているんだけどね』
「うちの蔵にも相当古い本があるけど…まずは図書館にでも行って郷土資料から漁るのが定石かな。あまり期待できないけど。それで、何か情報が仕入れられればそこから伸びた糸を手繰り寄せていけばいいかと。あした朝から図書館に行って、そこで策を練ろう。今はとりあえずピンクのしおりの方が大事」と再びゲーム画面に向き直る。
『あんがと』
「ま、俺もフィールドワークってやつをしてみたいとは思っていたから丁度いいよ」と画面から目を離さずにつぶやくT君。こいつは本当に人がいい。
何はともあれ、心強い味方を得た私はその日はそのままT君の部屋に泊まった。私もT君も、お互いに相手を異性だと意識していない、本当に貴重な友人だ。この日の夜更けにはピンクのしおりどころか、金色のしおりまで出してしまい、やるゲームがなくなったのは言うまでもない。
***
翌朝、図書館で郷土資料コーナーの本を片っ端から広げて、何かヒントはないかと探した結果、「上人塚」というのがキングど田舎シティの外れにあることを突き止めた。その地域、うちのキチガイオヤジの実家がほど近い場所にあるのどかな田園地帯だ。昼休みの時間帯を狙って、少々頭のおかしい父上に電話を掛ける。あの人の実家もだいぶ古いので、もしかしたら何か知っているかもしれない。
「おう、なんだいきなり」とものすごく不機嫌そうな感じだけど、これが彼のデフォルトだ。
『今ねー、民俗学の課題でフィールドワークしてるんだけど、父上の実家の近くに上人塚ってのがあるの知ってる?』
「上人塚ぁ?また物騒な話してるなぁ…」と、父は知っている限りの情報を教えてくれた。
***
戦国時代、この地域を治めていた大名が出した、もともと信仰されていた浄土宗から日蓮宗への改宗令のおり、この地の某寺の住職が改宗に応じないため、捕えられて生き埋めにされた塚であるらしい。また、近くの村出身の徳高い名僧が、入滅後葬られた塚であるとの伝説もあるとのこと。
後半の話はどこの地域でもありそうだけど、改宗に応じない坊さんを生き埋めにしたというのは香ばしい。
日蓮宗へ強制改宗の話はやはりあったのだ。残念ながら日蓮ご本人によるものではないようだけれど。それにしても生き埋めって。
また、ついでといわんばかりに父はもう一つ地元に残る香ばしい民話を教えてくれた。経文塚というのが父の実家のすぐ近くにあるらしい。
全国各地に経文塚というのは残っているらしいのだが、どうやらこの地域の経文塚は世間一般のものとは意味が全く違うらしい。祖母の生家で聞けば詳しく場所を聞けるとのことなので後ほど行ってみることにする。
【経文塚】というのは本来、仏陀の入滅後56億7000万年後に弥勒菩薩がこの世に降臨する際に備えて、そのころまで経典がなくならないように、と経文(法華経がおおかったらしい)を金属や陶器製の容器に入れて土中に埋めて奉納する作善行為のことだ。言ってしまえばタイムカプセル。
似たような言葉に「お経塚」というのがあるけれど、こちらは室町時代などに戦死者を供養する意味で経文を骸といっしょに埋めたお塚のことで、意味は異なる。どちらにしても、決して物騒な意味ではなく、うちの父上が言ったのとは全く違う。
父が私たちに教えてくれた経文塚にまつわる民話こそ、師匠が求めていたものの答えのようだった。私たちは祖母の生家に向かい、ばぁさま(祖母の妹)に話を聞いた。
***
------日蓮が立教し、各地を行脚していたころ、この地域には浄土宗が巾を利かせていたらしい。前述のとおり、日蓮は多宗派を徹底的に批判し、著書「立正安国論」のなかでは「禅宗や念仏唱えているだけの浄土宗を迫害しないと日本は外国に攻められる」というイスラム国もびっくりのトンデモ予言を展開し(当然幕府からは黙殺される)、現実に元寇(文永の役)が起きると「念仏なんか唱えるから元寇なんか起きるんだ。それ見たことか!」で有名。
なお、一応予言は当たったので幕府に召喚されて「二度目の侵攻はあるのか、あるのならば次はいつなのか」と問われたとき、
「二度目の元寇(弘安の役)はすぐ来ます!今すぐ来ます!次はもっとヤバいのが来るので日本は法華宗に改宗して、いますぐ禅宗と浄土宗を迫害しましょう!今すぐ!ブヒィィィイィ」
とおおよそ聖職者とは思えないクレイジー理論でまくしたてるような猛者。信者たちも浄土宗なんて見かけたら迫害せずにはいられない。どうやら経文塚がある場所にはもともと浄土宗のお寺があったのだけれど、通りすがった日蓮宗徒と思しき僧侶の一団が寺ごと焼き討ちし、のちの延暦寺の焼失時の如く浄土宗の僧侶たちが皆殺しにあったらしい。上人塚の比ではない大惨事だ。そして土地の民たちは、殺された僧侶たちの無念がいずれこの地に災いをもたらすのではないかと、浄土宗の経典を僧侶の骸と一緒に埋葬したのだという。そして、日蓮宗徒がこの塚を見たときに「浄土宗の僧侶に供養など不要!ブヒィ」とのそしりを受けぬため、供養塔は建立せず、表向きは「改宗に際して不必要となった経典を土中に埋めた塚」として経文塚と名付けたのだという。
なかなかスケールの大きなお話だった。T君なんか瞳をキラキラさせて聞いていた。もう、経文塚を実際に見たくてウズウズしている目だ。いい目をしていやがる。
わたしたちは挨拶もそこそこに祖母の生家を後にし、ばぁさまから聞いた経文塚があるとされている場所へと向かった。
途中で舗装された道路は途切れ、砂利道が200m山の方へと伸びている。小高い丘にあり、四方を雑木林に囲まれた天然の要塞のような場所。こんもりと土が縦横5mほどの方形に盛られており、中央から10mほど離れた場所に小さな祠があった。さすがに読経するわけにもいかず、祠に一応手を合わせ、師匠に提出するべく辺りの写真を撮り始める。
塚の遠景、ここまで至る道、人の往来を拒むように密生している雑木。ひとしきり写真を撮り終えた私たちはそこで煙草に火をつけて一服しようとした時だった。
実は、ここに来た時から云い得ぬ不安な気持ちになっていた私。陽が当たらぬような場所ではあるけれど、真夏なのにちょっと肌寒い…気がする。T君も同じ気持ちだったらしく、しきりに周りをきょろきょろしている。
『あんまり長居しても仕方ないから帰ろうか?』と言おうとしたその時だった。
「ヒッ!!」
とT君が声にならない悲鳴を上げた。
わたしたちは祠の前で煙草に火を付けようとしていた。その祠の周り半径3mほどが、
毒蝮(マムシ)数匹に囲まれていた。見えるだけでも4~5匹いる。
わたしたちはそのまましばらく動けずにいたが、マムシも動く気配がなく、じっ…とこちらを見据えているようにも見えた。
無言で立ち尽くすこと数分。喉はカラカラだし、脂汗がダラダラと出る。
T君は私に目で「逃げよう」と合図を送ってきた。わたしも無言で頷く。意を決して、そろりそろりと彼らを刺激しないように経文塚をあとにするわたしたち。幸いマムシは襲ってくることはなかったけれど、気づかずに刺激していたらどうなっていたかわからない。
徒に塚を荒らした私たちへの仏罰なのか、それともあそこに眠る浄土宗徒の日蓮宗徒への怨念なのかはわからないが、この時ばかりは本気で焦ったね。
そういえば、とばぁさまが私たちの去り際に「祟られるから荒らすんじゃねぇぞ」って言っていたのを思い出した。うん、もう来たくない。
***
帰りの車の中、運転しながらT君が言った。
「俺、リナに謝らなきゃいけないことがあるんだ…」
『…なに?』
「祠にさ、手を合わせたじゃない?」
『うん…』
「俺さ、南無妙法蓮華経って唱えちゃってた。脳内で」
『お前のせいか!!』
自分の脳に時限式の爆弾を仕掛けたお話でした。